第四奏『ナイト・ミスト』

上弦が軽く膨らんだ半端な月

それが今の自分、まるでその姿を映したような、ままならない半端な力

新しくその身に備えたその力
心に呼んだその力を、いまだフィーメルは扱いかねていた

心の中

ぽつりと浮かんだ黒い闇

『今夜わたしと繋がった、この携帯を身に付けてお行きなさいな』

悪戯好きな、神様が戯れに貸し与えてくれた黒い闇

その時は、何のことかも解らずに、言われるまま
ただ想い人の抱える何かを共に分かち合いたくて、その人の住居に急ぐ道すがら
ふと、フィーメルは肌身につけたポーチの中で
彼女の、いや絵理花の姿でいるときに例の悪戯好きの神様が
神に繋がる番号を登録した携帯が何かを受信したことを知った

『こんなの持って行ったら、余計気配が悟られるんじゃ…?』

とあるビルの上、誰にも監視されないその場所で
携帯を開いたフィーメルはそれが神様からのメールだと知った

『何を送って……?』

   発信者:roko
    件名:使ってごらん
添付ファイル:aqswdefr788963
    本文:

本文は何もない、まさかおかしな画像など送るとは思えないがと
おそるおそる添付ファイルを開いたが、
そこには白い画面の中に小さな黒い円が写っているだけ

からかわれたのかと、ディスプレイを見つめるフィーメル

しかし、彼女の掌の上、携帯のディスプレイの中
黒い円は不意に、ふくらみを見せ、盛り上がり
ほろりと画面から抜け出して

驚きに見開かれたフィーメルの瞳は
ついに真球となって彼女の掌の上、携帯の上に何かが浮かぶのを見つめることになった

その色は…黒
いや強いて言うなら黒には違いがないが、淡いディスプレイの発する光の中でさえ
それは名前を持たない色に見える

すべての色を含んでいながら何色でもない
ありとあらゆる光を備えていながら自らは決して光を発しない
その色に付けられる名前はそう、ひとつだけ

『これは…「やみ」…?』

その名を脳裏に呼んだその瞬間
目の前の昏い真球はフィーメルの視線の中に飛び込んで
驚くまもなく彼女は自らの心にひとつの『闇』を認めた

なんて柔らかな、そして暖かい闇なのだろうか
これは人を傷つけるものではない
人を、すべてを癒す闇

傷ついた人が獣が
心に永遠の安息を呼ぶために、あるいは明日の力を呼ぶために
そっと心を覆う闇

『まるで、そう…夜の…き…り……』

そしてその認識とともに、フィーメルの意識は自らの心も、身体も、その気配ごとすべて闇に溶け
彼女の想い人の許に誰の眠りも妨げず何者にも悟られずにたどり着いた

『ただしサービスするのは今夜だけ。
 この後もできるように成れるのか、それはこれからのあなたしだい』

言われたとおり、翌朝
眠ることなく想い人と二人きりの刻を過ごしたフィーメルは
心の中に、もはやあの深遠が残されていないことを認めた

けれど

けれどそれはフィーメルにひとつの挑戦と思えた

『それはこれからのあなたしだい』

と、いうことは使いこなして見せろ、そう言われたのではないか
きっと消え去ったわけじゃない
何よりあれは…

フィーメルは、あの時携帯の画面から現れて、自らの心の中に現れたものとひとつに融け合いながら
決して、それが自らの心の中にあるものと
何ひとつ、ひとかけらの異和感さえもありはしないことに気づいていたのだから

不思議なメールはどういうわけか保存されずに、さも、それが当然かのように消え去っていたが
彼女は、ただ、それの存在を彼女に気づかせるきっかけだったのだと、そう思い定めていた

きっと呼べる、あれは私の中にもある
それに、それにあれはこの世のすべての中にある
そう悟ったとき、彼女は心の中に、あの夜のそれほど完璧な真球でこそないが
心の中にけぶる、淡い、柔らかな可憐な闇をイメージすることができるようになった

が、初めて呼んだ心の闇は
あの夜のそれほど優しくも、また、完璧でもなくて

何より、困ったことにそれと一つに溶け合うと、自らの意識が飛んでしまう

とあるお気に入りの避難所で、自分の心と向き合って、初めて闇を呼んだ時
フィーメルは自分がそこからあさっての方角にある響子の住処の前にいることに気づいて
呆然としてしまったものだ

『瞬間移動した?』

そうでなく、意識をなくして動いていたのだと気付くには、いま少しの失敗と経験が要ったが
フィーメルはこの新しい力が
そう易々と己のものにはできないと知った

そして、今夜も半端な月に自らの姿を重ねながら
フィーメルはその力と格闘している

現在の問題は2つ
まず、闇をイメージするまでに時間がかかること
それを使うためにいちいち瞑想の真似事をしていては、とても必要なときに使えはしない

そして、最初の夜のように意識を保って動けない

こんなに大きな欠陥を抱えていては
これはとても力とはいえまい

けれど、なんとか使いこなしてみせる
何よりこれは自分に投げられた挑戦、悪戯好きの、かの人の挑戦なのだから

まずは召喚のスピードを上げなければ
そう思いながら、今夜、フィーメルが意識を取り戻したのは
江麻の住居、そう、フィーメルの喉を潤す『美味しい水』の在処の前だった

黙って窓を開けてくれた江麻は
興味深げにフィーメルの顔を眺めていたが
楽しげにくすりと笑うと温かい飲み物を出してくれる

そう、夜風にそろそろ秋の気配が寄り添っていて
有難く、フィーメルはそれを半ば上の空で飲み干して
ようやくそれが日本茶だった事に気が付いた

「江麻は、こういうのを飲んでるのか」
「あら、意外?」
「合ってると言えば合ってる」
「ならいいじゃない」
なんとなく受け答えしていても、どうやらフィーメルの注意が其処になく
懸命に何かを手探りしている様子なのを知ってか知らぬか
そのまま江麻は話を続け
大学生活のことや、最近読んだ本の話、ファッションの話やら
取り止めもないことを、うるさくないスピードでほろほろと続ける

やがて

「……なの、だから明日、この際初心に帰って…銀座に、行こうって……」
江麻が語った話のどこかがフィーメルの意識をつついて
フィーメルは江麻の華奢な手をぐいっとつかむ

「! 江麻!!」
「きゃ、急にどうしたのよ、フィーメル」
「いま、今、なんて言った?」
「聴いてなかったの、明日、買い物に銀…」
「その前、その前よ、なんて言った?」
「…この際、初心に帰って……?」
「それっ!!」

何かをつかんだ捕まえた
試したくて、居ても立ってもいられず
江麻が何事かと見つめる目の前で、フィーメルは初めて自分があの『闇』を呼んだ名前を
それを自分が呼んだ言葉で呼んでみた
「夜の、霧……『ナイト・ミスト』」

その途端、言葉はイメージとリンクして

瞬間

フィーメルは、心が召喚したあの夜の『闇』と溶け合った

言葉、ことのは、どんな大きなものでも、決して目に見えないものをも自在にくくる
それが、ひどく素朴で、強力な呪力を備えている事を
いつかフィーメルは言霊を操っても見せる想い人から聞いた気がする

これからは、少なくとも、この言葉を心に思うだけで気配を自在に絶つ事が出来る
とは言うものの
相変わらず、使った後に意識が飛んでしまう欠陥は消えてはくれず

「急に目の前から消えたと思ったら、また戻ってくるなんて
 どこに行ってたのよ」
「あはは、ひみつ、えま、江麻ありがとう」
「え?私何か??」
「いつだって、江麻は私の美味しい餌、そういうこと、じゃ頂きまぁす」

照れ隠しを言いながらも
江麻に感謝を捧げるように、その夜の二人の交歓は満ち足りていて、そして、優しさを帯びていた

そうして、壁を一枚破れたうれしさに、つい、江麻と貪ってしまった味寝(うまい)のツケを
危うく支払いそうになった夜明け前、フィーメルはみずからの住処へと引き上げた

そして、翌日もフィーメル、いや、日中(ひなか)を過ごす絵理花の姿でさえ
彼女の上機嫌は続いていて、彼女が所属する校外の新体操クラブを訪れたときも
珍しく、チームメイトとおしゃべりまでしてしまっていた

たわいも無い会話、ファッションのこと、
チームメイトが贔屓にしているというアーティストの楽曲のこと、などなど

同じクラブにいてさえ、そして、絵理花、いやフィーメルに精気を捧げる存在になっている者にさえ
絵理花はふだんこれほど愛想良くは無い

それに気づいたか、同様に密かに絵理花に精気を捧げる取り巻き達が一人、二人と集まって
自然と絵理花を中心にした輪を作ってしまったのだが
その輪の中で、絵理花、いやフィーメルはふとある『匂い』を『感じた』

そう、鼻で嗅ぐ匂いではなく、彼女のもっと深い部分に感じる『匂い』

『これは?…何? 何この感じ』

心に引っかかる何かを突き止めようとでもするかのようにぐるりっと周囲を見渡す絵理花

そして、彼女の眼に入るのは、彼女が『徴(しるし)』をつけた少女達の、顔、顔、顔

『これは…、私の気配?ううん、私の徴をつけたものの気配、なの?』

うかつにも気付かないでいた、徴そのものに気配があるのか?
それとも、精気を捧げるものたちに特有の気配があるのか?
それは、判らないけれど、どうやらそれらには
自分とどこか似ている特別な『気配』いや『匂い』があるらしい

『そっかぁ、それに気付くようになったのは私が強くなったからかぁ
 うんうん、頑張ってるもんね、この調子なら銀座の『黒いやつ』とだって戦えるよう、に……?』

がりりと何かが絵理花の、いやフィーメルの中を引っかいた

『徴の気配? 銀座? 黒いやつ? ………え、ま? …江麻!、銀座、江麻が!!』

物も言わずに飛び出した練習室、身を隠す手間さえももどかしい
ロッカールームに飛び込むなりフィーメルへと姿を変え、衣類を入れるバッグに制服をねじ込むと
ようやく暮れ始めた夜空を切り裂いて
窓から外へと、そしてビルからビルへと街区から街区へと

フィーメルスパイダーは彼女を拒むあの街へ

いずれはと、心に期した黒い魔獣の縄張りへ、駆ける、駆ける、駆ける

そう一筋の蒼い線になって





                     
銀座4丁目

ここから先がいわゆる『銀座』

けれど、いまのフィーメルには判る
もう少し、そう、もうほんのすこし先からなんともいえない気配が漂ってくる

気配というにはあまりにも薄く、淡い

『でも…判る』

前回はうかつにもわからないまま立ち入って、その上、フィーメルの姿
そう、自分の真の姿を無防備にさらしてしまった

『…これが、縄張り? いや…ここから先に入るとあいつにわかるのか』


これは常にあの魔獣が発している警戒の輪だろうか?

自分なら、そんなことをするか?

『しない…この気配を察知される事の方が危険』

ならば…

『私が来ることを察してる?来るなら…こいってこと?』

ここに来るまで、焦燥に炙り立てられるまま飛ぶようにして奔り続けて来た

走り続けては来たけれど
フィーメルはもう、かつての仔犬ではなかった

焦燥に駆り立てられながら、これが思い過ごしである可能性も

そして

仮にも縄張りと宣言されたエリアに飛び込む事がどれだけ非礼か、それは考え続けて来た

そして

いま目の前にその縄張りが…

飛び込むのか?
その前にせめてなにか会釈でも

けれど

『…!江麻っ』

感じてしまった、西の方、そう、銀座のシンボルだとか言うあの時計店のあたり

ちくり

ふと右手の先が疼いた

紅い爪…


『自由に生きて…か』

自分には別に想い人がいて、そして江麻は自分には大事な『水』

江麻は恋人じゃない、だけど、ここで引き下がったあと、自分は自分でいられるか?

引き下がる自分はフィーメルで
そして想い人にいつかこの爪を埋める『ハンター』でいられるだろうか?

逡巡はもう出来ない
いや、する気はもうなかった

だが、そう、黒いあいつには…
非礼はしたくない、かなわない、きっとかなわないだろうけれど

『…!…!…!…………………………………………!』
限界まで高めた気配を探るためのいわばレーダーを、思い切り気配の壁にぶつける

自分くらい非力な獣でもここまで派手な音がすれば必ず気付く

まして、あいつなら、あの黒い、そう焦れるほどに美しい、強い強い、あの獣なら

『判る、いや、判らないやつなら…』
そう、気にする必要などもうない

そして

目の前、ほんの10メートルほどの前に

何の前触れも、気配も、空気の揺れさえ起こさずに、最初からそこにいたとでも言うように

自分より長い髪
力強い、けれど、細身のその姿

大人のそいつは

美しいそいつは

強いそいつは、星明りの下ひっそりと、月色に濡れながら立っていた


『…あ』
「やっと来たのか」
「え?」
「美味しくもない餌を気まぐれに送りつけてくる…」
「な、なんの」
「いい加減気に障ったから、何匹か捕まえて聞いて見たさ、お前、あんなのを餌にしてたのか」

「…」
捕まえて見た、聞いて見た?
そんなことなど、気付かずにいた、取り巻き達の何人が…

「あんなやり方では不味かろう? 意志のない餌は所詮空腹を満たすだけ」

「…」
わたしがしている事まで聞かれていたわけか、で、同じように記憶でも操作されて…

「そこにいくと今度のは…飛び切り美味そうだ
 ん?これで私を釣上げられると思ったか、私と食い合う自信がついたのか?」

「………」
「お前、まさか…」
「…………」
「気付いても…いなかったのか?」

「!………」
フィーメルの表情に、その質問が的中したと悟ったか
黒い魔獣の表情にあきれが浮かぶ

「…お前……死ね」
「!」
「お前のようなのがうろついていると、私が危ない、だから、ここで、いま殺す」
「………」

覚悟は、覚悟はしていた

ここに来る、それは、こいつとやりあうことに他ならない

しかし、こうなってしまうとは、軽蔑されて殺される

だが……
思わず握り締めた右手
真紅の爪が肌身に食い込む

「…だが、見逃してやろうか?」
魔獣の、黒い美獣の口元に淡い表情が浮かび、そして薄い笑いがその表情に被る

「そうだな、お前には勿体無い、あの餌、あれを置いて帰れ」
「………」
「それで火遊びを止めにして、こそこそと過すがいい、子供にはそれがちょうどよかろう?」
「………断る」
「ん?何か言ったか?」
「断る!」

わずかに、ほんのわずかに笑いがかすれ、美獣の目に真摯なひかりが見えた気がした

「そうか……」

ぎりぎりと空気の間に何物かが満ちてくる

ぎちぎち、ぐいぐいとフィーメルの周囲を締め上げてくる圧力


前回のままでいたのなら、もう耐え切れずに黒いやつに飛び掛っていただろう
そして、あえなく撃退されて、致命傷を即時に負わされていたに違いない

「…こないのか?」

ゆっくりと、左足(さそく)を下げる、左半身がじりじりと前面に向く格好だ
正面に残したままの左腕
軽く握ったその手指にはこれも、少しだけ伸ばした爪が星明りを映して光る

パワー、スピード、それに多分実戦の経験も…

こいつにはまだ負けている

ならばどうする

迎撃

他にない

黒いやつの一撃、これを先に出させて迎え撃つ

ぼっ

フィーメルの顔に向かって暴風が吹き付ける

無論、黒い一撃

手首の返しと左腕全体の跳ね上げで軌道を変えて反撃…

反撃は起こせなかった

フィーメルの髪が数本、暴風の殺到とともに吹き飛んで
その暴風の殺到と、魔法のような消滅はかろうじて追えた
追えたが消滅の瞬間に叩き込んでやるつもりの一撃の初動はどうしても起こせなかった

起こした瞬間自分に何が起こるのか
それがありありと、まざまざと、フィーメルの脳裏に未来のヴィジョンとなって結ばれる

『迅いのか…』
魔獣の速度はフィーメルの予想を超えていた

いや、もちろん、この身に刻まれた前回のときのスピードより
自分としては、かなり早い動きを、一撃を想定して
一日を、また次の一日をと
自分のなかで黒い魔獣と向かい合わない日は無かった、そう言っていい

『それより…迅いのか……』

喉の奥、身体の深いところ、いや自分の一番深いところから
ぶくりと、ぼこりと何かが浮いてくる

これは…恐怖?

いや、違う、そう、どこかで判っていた

ざわ、ぞわ、ぞわりぞわりぞわり

背中を走って昇ってきた、これは?

フィーメルは奇妙な歓喜が背中を走り抜けたのを知った

交錯する視線、一瞬の間、そして

左下から旋風

これはこの構えでは交せない

左の爪をもうわずかに展張して旋風の後を追って追撃させる
旋風を刈り取れるだろうか

「!」

旋風はふいっと消えうせ、いや素早く折りたたまれた
魔獣の右肢は何事も無かったかのように元の位置へと戻っている

予期したとおり

だから、だから
フィーメルの構えもまたすぐに元に服して、左半身のまま、動かない

『まだ…』
追いついていなかった
『もっと迅いのか』

「こないのか?」
再び魔獣が聞いてくる

無言のフィーメルに応えるように

一歩

黒い魔獣の肢体がフィーメルとの距離を詰めて

ぼっ

腕が、肢が、身体全体が

フィーメルを襲う暴風となって、来る、来る、来る、殺到する

じり、じり、じり

間合いを計っているつもり、隙を狙っているつもりだが
隙は一向に見えない、確実なのは体毛が暴風の襲うたび何筋か持って行かれている事

そして擦過傷と、危うく身動きできなくなるのでは、そう思わせる際どい打撲が増えていく事



わずか、わずかづつ、眼が追いついている

けれど

息も上げないこの暴風

黒い魔獣はまだ本気を出していない

いま、自分は檻の中にいる

狂風と、そして圧倒的な暴力が織り上げた
身動きもままにならない狭い檻

だが、この檻にこもったのは自分
綱渡りには違いないが、この檻にこもる事で、この狭い檻の中での攻防に徹した事で
かろうじて眼が、感覚が
本来追うことも出来なかっただろう魔獣の攻撃に付いて行っている

だから、だからこそ致命の一撃は避けていられる

この持久戦はこのままでは間違いなく自分が不利

だが、耐えねば、そして活路を

すいっ
魔獣の目が細まり

リズムが、変わった

来る 見えない一撃

いや見えた

わずかに低い軌道からの爆発、爪の、漆黒の輝き、一閃

きらめきをその暴風にまとわりつかせた真の暴風が、爆発が、来る

受ける?



駄目、肘は駄目、壊される

返せ

同じ迅さで

返せ

構えた右を

紅い誓いを

紅い閃きを、いま

出遅れた分わずかに迅く

迅く、はやく、は、や………

「くく、くくく」

いま自分は何を見たのだろうか

殺到するはずの暴風も、そして、それに交錯させるはずの真紅の一撃もそこになく

「くくく、くく、あは、あはは、あははっはっは」

魔獣の笑いしかそこにはなく、代わりにフィーメルの背には
ぞくり、ぞわりと
恐怖とも、歓喜ともつかない一瞬の未来視が現実を後追いするかのように這い登ってきていた

「よく止めたじゃないか」

止めた?

「カウンター狙いは見え見えだな、もしカウンターを打っていたら」

打っていたら、そう
追いかけてきた未来視は

顔面に炸裂するはずの真紅の一撃は魔獣が軽く振った首でかわされ
崩れた体勢の自分の腹部が魔獣の一撃で…

そうか自分は止めたのか

とても出来ないはず、そう出来なかったはず

魔獣と向き合うそれまでは、そもそも最後のカウンターすら放てたかどうか
そう、放つまでもなく魔獣の最後の見えない一撃に粉砕されていた

そして、危うく撃墜される筈のそのカウンターも止める事が出来た

出来たが

こいつは それ以上

いやまだ比較の対象ですらないかも

「で、止めたのは大した物だ、だがどうする?」

そう、どうするか
 
魔獣の仄かな笑いがその場にたゆとう

その笑いが、淡い微笑がフィーメルに響いて

フィーメルの心の底がしんと水面のように静まった

『わたしは、死んだ』

別に、なんということのない真実

勝てない以上、いま自分はここで死んだ

諦めではない、単なる事実

なら、あとの事も何もない、ここにいる自分の全部をぶつけるだけ

しんと静まった想い

そう、だれも拒まないあの闇のように静謐な

何かを見たか悟ったか、魔獣の顔から笑みが消える

すぅ

低めた姿勢

対する魔獣が、フィーメルの動きにあわせて初めて構えを取る

さわさわ、ざわざわ銀座の喧騒がどこか遠くで響いている

からん

どこかで何かが転がったか

その瞬間
蒼が、夜空の蒼が魔獣に向かって


いや、魔獣の撃墜できない角度で魔獣の斜め上方を通り過ぎ

蒼が向かう先にはビルのペントハウスの角

反射する蒼

撃墜しようとする漆黒

が、反射の瞬間
蒼のなかから真紅が、真紅の爪が走り出て

真紅がペントハウスの壁をがちりと捉え

ぐるり

軌道を変えた夜空の蒼は一瞬の漆黒の虚を突いて

ネオンの星達を切り裂いて、隣のビルの方へと消えようとする

「逃がすかっ」

折角認めてやった相手にはぐらかされた怒りにか、漆黒の流星が見境もなく跡を追う

夜空の蒼はするりっと隣のビルの屋上、その給水塔の影に入り

漆黒が着地し、蒼の影を踏もうと、給水塔の影を曲がろうとしたとき

「…いと…すと」

静かな声音がほろりと漆黒の耳朶を掠めて

そして漆黒の視界から、漆黒の『感覚』から、蒼の気配が消えうせる

そして初めて

初めて漆黒は己の背中に、己の首筋に当てられた死神の鎌を感じた

失探

10メートル、いやそれ以上の範囲のあらゆる事象を完璧に把握していた、いやいまもし続けている
漆黒の『感覚』から蒼の気配が消えうせている

ここにいる、間違いなくここにいる
だが掴めない

だが動かない、いや動けないのではなく漆黒は、黒い魔獣は動かない

うかつな動きが即ち死への入り口と魔獣の全てがそう教えているから



死神の鎌は真紅の閃きとなって魔獣の胸
艶やかな、漆黒の毛並みを纏う豊かな胸の前、ほんの30センチほどの前に出現した

ざくり

重みのある闇の中
身体を、意識をつかむ闇の中からフィーメルは誓いの爪の異様な、いや、いっそ覚えのある手ごたえで
その手ごたえを頼りに意識を取り戻す

貫いている

漆黒を、魔獣を

魔獣の腕を

そう、軽く握られた魔獣の右腕を深々と

かろうじて魔獣の腕の筋肉がわずかに魔獣の心臓の上で真紅の爪を止めてはいるが
爪の先は魔獣の胸までもわずかながらも突き裂いていた

魔獣に一撃を


いやその喜びよりもがら空きの自分の体勢に恐怖してフィーメルは爪を腕を戻そうとはやる

抜けない、魔獣の筋肉が爪を締め上げている
けれどそれも一瞬の事

「どうやったのかは聞かずに措こうか」

魔獣の声とともに筋肉が緩み、フィーメルは素早く後方に飛び退る

魔獣の唇が赤い舌をちろりと吐き出して
魔獣は腕の傷を舐め上げる

「名があるなら聴こう」
「………」
「名は無いのか?」

震えを必死に隠していて唇は容易に動いてくれない
けれど

「…メル」
「うん?」
「フィーメル」

魔獣がそれを聞いてにやりと笑う

「そうか、ならフィーメル、わたしの狩場にその姿で来るのは止める事だ」
「え?」
「次は無い、フィーメル、次にお前がその姿でここに来たら
 どんな言い訳も必要ない、それはわたしを殺しに来た、その意思表示とわたしは取る」
「あ、あの」
「くく、気まぐれを起こしているうちに消えた方が良くないか?
 それともこのまま勝てる、そう思っているのか?」

微塵も思っていなかった

「いい攻撃と言ってやりたいが、フィーメル、お前の眼には光がなかったよ」
「え、え、え?」
「どんな理由かは知らない、消えたのと関係があるのか、いや、聞くまいよ
 だが、まぐれは2度ない、意志を込めた一撃、それだけが本当に相手を屠る、そうだろう?」
「あ、あの、お、お願いきかせ」
「お前が消えないならわたしが消える、では二度と来るな、フィーメル」

予備動作も何もなく魔獣がフィーメルの視界から外れ去ろうとする
先ほど最初に対峙したビルの方へ消えようと
そして思わず跡を追おうと動くフィーメルその視界が一瞬、
自分がナイトミストを呼ぶための盾にした給水塔の影に入ったその瞬間

ほろん

耳慣れない音とともに給水塔の上半分がざわりと砂か灰にでもなったかのように崩れ落ち
戒めを解かれた水がフィーメルに溢れかかって

ずぶぬれの夜空の蒼は屋上にひとり立ち尽くすことになってしまった


「くしゅん、は、は、くしゅん」

「絵理花さん、夜更かしでもした?はい、お粥、無理しちゃ駄目よ
 今日はおうちでおとなしくしていなさいね?」
「う、はい、薫さん、あれ、おかあさ」
「お母さん?」
「うわ、か、薫さん、あのあの、左手、どうしちゃったの」
「あ、これ?ちょっとひねっちゃって、さ、わたしは出てくるから、ね?」

びしょぬれになったあと、江麻の無事な帰還を見届けて
江麻には会わず、家に戻ったものだから
フィーメルは、いや絵理花は珍しく風邪を引いてしまったようだった

いつもの会話、優しい母


だから、わざとらしく吊られた「左腕」には傷がなく
左腕をかばう右腕の袖の下になにが隠されているかも気付かずに

『うぅ、あいつ、わたしが持ってない武器とか持ってるのかなぁ
 いいや、負けない、ううん、わたしはわたし』

薫が出かけた後、そっと伸ばしてみた誓いの紅が
朝の光の中で、きらり、穏やかに光っていた