第三奏「光の匂い」
光があふれてそして消えた
そのあとには風が隙間を埋めようとこの荒地に吹き込んでくる
『片がついた?
まだ、身体も動かないけど…』
黒衣の少女が磐(いわお)に身を預けて空を見上げる
月も無い空
彼女には明かりの有無は関係ないが、月も見ていないそんな夜
この身をここで朽ちさせるかとも思えば、心に寄せるものもまだあるのだと
ふと微笑もうとして彼女は我が身を、魂を苛む血印がまだ効力を失っていないことに気がついた
血
ほとんど不死、そして強大な魔力、人の身を、いやほとんどの魔法生物をはるかに越える身体能力
それらを彼女に与えるのも古代の魔法が生み出した血を媒介にする魔法なら
今、彼女の身を縛り上げ、人同然のレヴェルにまで堕した物も
やはり血を媒介にする魔法陣だった
彼女を記憶の中の存在に貶めたいと願う者どもは彼女にもっとも近い血族の血を搾り上げ
それでこの場に血印を…
人質を助ける為、罠と知りつつ彼女がこの場に踏み込んだ時
人質の身体から命の最後のひとしずくが搾られ、それが最後の「一筆」となり
血印の中に放たれた使い魔どもとの戦いを余儀なくされた彼女は
自らの血を散々に流した挙句、進退窮まって
その身に残された魔力を解放した、そんなわけだった
だが…
そこここに転がっていた塵(ちり)とも、肉塊とも付かないわだかまりの中から
もぞり
今は元の形も判然としない”もの”が暗がりの中に立ち上がる
『残ってたのか、使い魔がまだ消えてない…あいつもまだ…』
背負った磐がまるで彼女を大地に繋ぎとめているかのようだ
立ち上がることさえままならない
『どうせあいつにはこの中に入ってこれる度胸は無いわね、こんな下等な奴に消されるのが定め?』
それも仕方が無いかもしれない
彼女はあまりにも長く生きてきたのだし
何より、この半世紀ほどは得難い伴侶まで…
『問題は…ここの中では、魂の消滅さえも許されない…
この世の上にあるままでこのまま苦しむ…』
誇りも高い彼女を苛むのはそれ、彼女を罠に嵌めた首魁はそれを察して喜んでいるだろう
『ま、やってみるのね、好きにしてみればいいわ
次は自分が追われる立場になる、それに気付くまで短い勝利を祝うとよいの…』
先程彼女が放った魔力に灼かれたか、元の形も失いかけた黒い影が彼女の上にわだかまろうとする
影の指先に残った爪が彼女の上に落ちようと
ヴん
彼女の耳に聞きなれない音が響き、わだかまろうとした影に大きな穴が開き
ぼそり
影がこぼれて落ちた
同時に彼女を縛り上げていた血のくびきが解かれ、彼女の魂の縛めが解かれる
何者かが血印の外から結界の中の使い魔を抹殺した
外部からの干渉が結界の中に働いた
その瞬間に結界は意味をなさなくなり
それでこの場を覆い尽くしていた血印が効力を失ったのだろう
だが…
魔力は戻ってきたけれど、彼女は自分の消滅が近いことを改めて自覚する
『流れすぎちゃってるね…』
そして力を取り戻した彼女の「視点」はこちらに近づく新たな気配を「視て」いた
音も、気配も完全に絶っている
しなやかな肉食獣の足取りに一番似ているだろうか
力が戻っていなければ彼女にさえも捕らえられないその動き
下等な使い魔からは感じられない知性がその足取りにすら感じられる
月も無い漆黒の闇
けれどそれより黒い新たな闇は興味深そうに横たわる彼女を見下ろした
「あふれたのはお前…か?」
「…?」
黒い闇は左手に付いているハープのようなものをぱたりと畳むと、形のよい鼻をくんくんと動かした
「お前だな、さっきあふれた光の匂いがする」
彼女を見下ろす獣とも人ともつかないその姿
だがその闇には不思議に穏やかな、いっそ優しげに見える透明な表情が付いていた
「喋れるの?それはともかく…助けてもらったようね、ありがとう」
「助けになったかは知らない、それにお前はもうじき死ぬ…判っているのか?」
死神はこんな姿をしていたか?
彼女が見知っているものとは形が違う、それにひどく率直なようだ
黒衣の少女は、失われていく自らの命の量を見極めながら
今は蒼白になった可憐な唇に、微笑みが浮かぶのを止めはしなかった
「判っているわ、でもありがとうレディ」
「レディ?」
「ふふ、そんな姿に見えたの、私に死を告げにきた黒い死神さん」
「口数の多い死人だな…いや、まだ死んではいないのか」
「そうね…あと…5分くらいで消えるわね」
「ほんとうに判っているのか?」
「…ええ、もう何千年もこんな姿でうろうろしていたからね」
「未練は無いのか?」
未練を聞きにくる死神に看取られようとは
彼女の笑みは大きくなる
「未練…は無いけど…約束を破っちゃったわね」
「約束?」
「ふふ、旦那様がね、いるのよ…死に水を取ってあげる約束だったんだけどねぇ」
「同類か」
「まさか、人間よ、ただの人」
黒い貴婦人の冷たく冴えた瞳に興味が動いたようだった
「何千年も生きてきたというのなら、助かる方法くらいあるだろう
どうすればいい?」
「あらあら同情してくれるわけ?ふふ血がね要るのよ、
それも私がかってに奪うのじゃ駄目、私を思ってくれる人がすすんで私にくれる血でなければね」
「そうか…」
「だから、これでお別れね黒いレディ、おかげで苦しまずに逝ける、ありがと…!!」
突然彼女の口は黒い死神が、自ら切り裂いたその手首からあふれさせた血潮で満たされた
「混じり物の血ですまない、これで助かるのなら…使ってくれると…」
ぐらり、黒い死神の身体が傾ぎ(かしぎ)、彼女の上にくず折れる
「やれやれ、なんなのこれは?」
黒い死神が、先程自らが血を与えた少女のこの姿を見ればどう思ったろう
気を失った死神を軽々と抱えるその姿
夜気を呼吸して輝く薔薇色の皮膚
腰まで届く細く艶やかな黒髪
先程まで襤褸(らんる)と化していた漆黒のマントが今は下ろし立てのように
誇らかに彼女を覆っている
「血はほんの一滴でよかったのに」
薔薇色の頬には優しさと困惑の笑みが浮かぶ
「何よ自分がぼろぼろになってたくせに、一体何をしに来たのかしら…
使い魔じゃ…無いわねこの体…」
黒衣の少女は彼女の姿より少し年かさに見える死神の
自らの腕に抱えた死神の額に、自らの額をふわりと重ねて瞳を閉じた
「なぁんだ自分でも自分のことが判っていないの?
ふぅん、訳ありなのね」
やがて優しさを取り戻した風が彼女の纏うマントを柔らかに揺らし
そして黒い二人が消えてゆき
その場には風にそよぐ草しか動こうとする物は無くなった
それは20年ほど昔の話
日本では小島がひとつ地上から消え
その少しあと欧州では黒い森の中に人知れず聳えていた古城がひとつこの世から姿を消した
これはその前夜の話
振夜邸の昼下がり
久しぶりに訪れた画商の婦人とこの屋敷の孫娘
香気の漂う熱い紅茶を黙ってすする
向かい合う二人の中、記憶の中にだけ残る、そんな夜の話だった