第二奏「美味しい水」


フィーメルの為に開かれている窓はこの世にただ1つ
けれど
フィーメルの為に開かれる窓なら他にもある
そしてその窓の中にはフィーメルのお気に入りの窓もあって

「いらっしゃいフィーメル、ううん 私も知らない秘密の恋人さん」
「今晩は、まだ起きてた?」
「今夜はね、そしたら…ふふ貴女の事思い出したから、ちゃんとお迎えできたでしょ?」
いいながら彼女がフィーメルを背中から抱きしめる
そして軽いキス

獲物に対するフィーメルなりの礼儀を教えてくれたのがこの窓の主
いや彼女との接触でフィーメルが学んだのだといってよいかもしれない
それまで男女を含めて何人かの獲物と接してはきたが
彼女に会うまでフィーメルは獲物の意志を奪った上で
フィーメルとしての『いのち』をあがなってきていた

フィーメルにフィーメルとしての姿を与えるきっかけになった相手
そいつには今でも精神の枷(かせ)をがっちりと掛けてある
フィーメルとしてそいつに近寄ればそいつはフィーメルの意のまま
いや絵理花として接する時にでもフィーメルさえ望むなら
そいつはフィーメルの望み通りに振舞うことになる
かつて自分がそいつに捧げたものを、いやその戯画を
絵理花の姿でそいつにさせてみたりはしたが、それではフィーメルは満たされなかった
けれどそいつの枷だけは決して外す気にはならないのが不思議なのだけれど

お人形を増やしても見た
一時、絵理花が籍を置く校外の新体操クラブはチーム1つが彼女のお人形になっていたことがある
その方が安全だとも思ったし
少女たちが一人またひとりと絵理花のフィーメルの言いなりに落ちていくのが
愉しいと思ったこともあった

お人形にするのは割と簡単なことだった
サードアイの力で心をぎっちり縛り上げて
そうして一番敏感な芽にフィーメルの特別な糸を巻きつけてやる
フィーメルが『気配』を送ると糸が反応するのだ
その刺激とかけておいた暗示で相手はフィーメルの意のままになるお人形に変わる
そして繰り返すうちお人形たちはフィーメルに精気を捧げることを喜ぶようになる

けれどどうやら違うみたいだ
これは自分のしたいことじゃない
そうと判ったきっかけは『黒い奴』に叩きのめされたこと

『黒い奴』とは銀座で会った
銀座は絵理花の母、自らを『薫さん』としか絵理花には呼ばせない
優しいけれどどこかでは一線を引いてそこから先は立入らせない
そんな厳しいところもある母が経営する画廊がある場所
『薫さん』とそう呼ばせるのは絵理花を一人の人間として扱う
父が早世した時にそう決めたのだと以前に聞いた

その日、たまたま銀座を訪れた絵理花は
帰りがけ夕暮れの雑踏から身を隠し、ふとフィーメルの姿に戻ってみた

こんな姿になったけれど、こんな生き物になってしまったけれど
『代償』に自分は力を手に入れた
自分は強い、人だって意のままにできる
暮れ行く街を見下ろしながら昏い(くらい)愉悦に身を浸したその時に
そいつは絵理花の前に、いやフィーメルの前に姿を現した

自分にまるで生き写し、いや身体を覆う艶やかな毛足が黒々として怖いほど美しかった
自分の色が暮れ往く空にかすかに残る『夜空の蒼』なら
そいつの色は闇そのもの、漆黒の闇の中でさえ、なお黒く輝く、そんな黒曜石のような色だった
『同類』とはっきりわかるそいつに、大人の肢体を備えたそいつに
思わず声を掛けようとした瞬間
『黒い奴』は無言のまま、前触れも無く襲い掛かってきた




「待ってよ、話を聞いて、いえ、教え…」
答の代わりに襲ってくる爪、蹴り、一つ一つが早く、重く、かろうじて受けた一撃に
フィーメルの腕は痺れた
反撃の糸口さえ掴むこともならずいつかフィーメルは
知らぬまま、涙を流して、恐怖に震えて
ただ爪を振り回して、そして泣いていた

ふと攻撃が止んで、まだ闇雲に爪を振り回しつづけていたフィーメルは
そいつの顔に浮かぶものを見た
それは笑い、軽蔑の笑い
「子供はお帰り」はじめてそいつが笑いを含んだ声をよこした
「え、え?」
「見逃してあげる、銀座は私の狩場 今度ここに踏み込んだら 殺す」
次の瞬間には、いや言葉の最後はもう『黒い奴』の姿を伴っていなかったかもしれない

そのあと
どこをどうして帰ったのか、いや帰ろうとしたのか
まるで憶えていないのだが気が付けばフィーメルは棲家から1kmほど離れたとあるマンションの
窓の主(あるじ)と視線をからみ合わせていた
無防備なままの姿を見られた恥ずかしさに湧き上がる凶暴な衝動が爆発しかけたその瞬間
『今晩は、遊びにおいでよ』
聞き間違いではなかった、口の動きを見間違えてはいなかった
釣り込まれるようにして入ったその部屋
意志を縛ることも忘れて思わず吸い取ってしまった主の『精気』

意志を持ったまま絵理花にくれたひと筋の『精気』は
今まで味わったことがないほど美味しくて
砂を噛むようにして『精気』を吸っていたフィーメルは初めて自分の向かいに人がいることを知った

精気を吸われた部屋の主の喘ぐ声
屈辱に嗚咽する自分
二つの喘ぎが交じり合い
やがて優しく抱かれたフィーメルは優しいその胸に甘えて…泣いた

何も問わずに甘えさせてくれた部屋の主には
今更枷を嵌める気にもなれず、まだ半ば自暴自棄のまま
フィーメルは部屋を去ると、住処に戻って一人で泣いた

死のうか?
今はもう人ではなく
同類の中でも半端ものなのでは?

けれど次の夜ふらふらと再訪した部屋の主は
やはり何も聞かずに乾いたフィーメルを潤してくれた
自らを大学生だと言ったそのひとの打算を疑わなかったわけではない

何しろ最初に一度、手ひどく痛めつけられてこの姿になっていたのだから
けれど、どうでもいい気もしていたし
フィーメルは自分の身の上、こうなった理由
自分の能力
そして先日の屈辱までもぽろぽろと喋ってしまっていた
最後に自分の正体まで喋ろうとすると
部屋の主はフィーメルの口を自らの唇でふさいで黙らせた

「貴女の力なら私の記憶を消せるんでしょうけど、言わないのに越した事はないって思わない?」
「そんなの、もうどうだっていいもん」
「良くは無いわ、だってこれから先があるじゃない?」
「先なんて無いよ、わたしなんか弱いだけの半端ものなんだ」
「次は勝てばいいじゃない」
「え?」
「言われたんでしょ?『子供は』お帰りって?」
「う、うん」
「じゃ、大丈夫じゃない?向こうは大人で貴女は子供、牙を磨いて叩きのめして笑ってやりなさいよ」
「できるかな?」
「知らないわ」
「えっ」
「出来なかった時に諦めたらいいじゃない」

何かがフィーメルの肩から外された気がした
そうしよう、そうしてやらなきゃ気がすまない
「ありがとう、お姉さん…あの…大好き」
「いいわよ、今は甘えても、でも…」
「…うん」
「ふふ、だったらね、お喋りの仕方も変えたほうがいいね、せめてその姿のときは」
「うん…でもどうすればいいか…」
「じゃ教えてあげる」
「えっ、お姉さんが?」
「これでも演劇部に籍置いてるのよ、私で良ければだけど?」
「うん、お願いします」
「そうね、貴女がなりたいのってどんな人?」
「黒い奴!」
実際の黒い奴がどんな奴かは知らないが
あいつのような大人になりたい、強く危険で冷酷な

そうしてフィーメルは
いや実は変身した自分に名前などつけていなかったのだが
何度か通って部屋の主に言葉遣いや振る舞いを教えてもらっているうちに
「フィーメルスパイダー」と自分の名前をそう決めた

そして初めてそう名乗ったその時にフィーメルは今更ながら部屋の主の名前を聞いた
「わたし?」
「ああ」
「江麻よ、蓮見 江麻」
「そうか、江麻 私は今、江麻から生まれたんだ」
「あら、私未婚の母になっちゃうの?」
「申し訳無いと思うよ」
「ふふ、ママになってあげるのはご遠慮するけど生まれちゃったものは仕方ないね」
「江麻 大事な人だって思っていていいだろうか?」
「随分遠まわしね、私の恋人になってくれるってこと?」
「できればそうなりたい」
「遠慮するわ」
「やっぱり、そうか」
「ふふ違うわ貴女の思ってる理由とは違う」
「何が違う?」
「きっとねフィーメル、貴女の恋人さんはどこか他にいるの
 でも貴女が恋人さんを見つけるまで、いいえ、見つけてからでもいいわ
 何時だって貴女の餌になってあげる、フィーメルさんはとってもはらぺこさんだもの」
「恋人とは違うのか?」
「違うわね貴女の餌よ」
「どうしてそんなにしてくれる?」
「可愛らしい迷い猫さんが、お部屋の前でにゃぁにゃぁ泣いてたから
 ミルクを上げて乳離れするまで可愛がってあげたい
 大きくなったら遊びに来て愉しませて欲しいそれだけ」
「そうなの?それだけなの?江麻さん」
「あちゃ、メッキがはげてる、それじゃ勝てないでしょ?」
「だってぇ」
「……ね、フィーメル私を縛り上げてよ?」
「えっ!」
「うふ、お人形さんにするの」
「そんなこと出来ない!!」
「ふふ、お人形じゃ味気無いのね?」
「それだけが理由じゃないってわかってるでしょ?」
「どうかな判ってるかどうかは私も判らないけど、フィーメルがお人形さんに
 つける徴をつけてよ、それでね?」
「そ、それで、どうするの江麻さん?」
「言いなりにするのが嫌ならあなたがそばにきた時にだけ貴女を思い出せるようにして欲しいの
 どう?出来るでしょ?」
「出来ると…思う…けど、どうして?」
「餌でいたいの、それで、迷い猫を可愛がる気楽な立場でいたいって事
 それが嫌ならお人形にして可愛がって、それくらいのお願いはしてもいいでしょ?」
「…うん…判ったよお姉さん…いや、判った江麻」

その日からフィーメルは大人になろうと決めた
今はまだ子供、それは仕方が無いだろう、だが何時かは大人になる
『黒い奴』を超える
いや一人で立つために

だから一度墜落して苦手にしていた例のビルにも登ってみたが
それで恋人ならぬ『想い人』を得たのが偶然なのかそれとも江麻の予想のとおりだったのか
フィーメルにもそれは判らない
そしてとんでもないものと知り合ったし
力には際限など無いのだと思い知った、あんなとんでもないものと同列にはなれない
ならば力とはなんだろう
高望みをすればきりが無い、身に備わったそれを鋭く磨く
それだけだ

だからとんでもないものに
『このあとできるかどうかは貴女次第…』などと言われると
何とか使いこなしてみたくなった
そんな心を『想い人』には話せない、いや想い人はそれと察して
微笑ましく見守ってくれているらしい
だからこそ早く対等になりたい。大人になりたい

だけど江麻には甘えてしまう
不思議なもので江麻に甘えたそのあとでフィーメルは自分で立つ気になれたし
江麻は、それが貴女の強さだからと笑ってくれる
「過程をね、見てないから余計愉しいの、いい顔になってきたよフィーメル」

江麻はフィーメルにとって生きるための水
恋人であろうと無かろうと
飛び切りに美味しい水