「夜奏帳(ノクターンズ)」


語られない物語が綴られた一冊の本

誰もがそんな物語を心に秘めているだろう

そしてそのいくつかは知らぬまに絡み合ってまた幾つかの話を作っているのかもしれない



第一奏 朝の挨拶



『…どうやら今夜で片はついたわね…』
先日来瞳を悩ませた彼女の血をめぐる騒動も今夜でおしまい
もっとも今夜握り潰してやった彼女のまがい物など
全体の中から見ればほんの一部、いずれ彼女を排除する者とのケリはつけてやらなくては
だがしばらくはそれに踊らされる有象無象も鳴りを潜めているだろう

あとせめて…100年とは言わない
ほんのわずか、そう高々30年ほどの時間をそっとしておいてくれればいいではないか
『この前は…まだそう、ほんの20年も経って…』
あの時は根こそぎ滅ぼしてやったと思っていたのだが

けれどその折の騒動は彼女に奇妙な友人をもたらした
そして友人の背負ったトラブルに片をつけるのとあわせて…
『叩き潰してやったわよねぇ…レディ、今度は何時できるかしらね。あんな馬鹿騒ぎ』
瞳の頬に永遠ともいえる時を経てなお彼女の心を瑞々しく保つ
悪戯っぽい微笑が刻まれ
形のよい唇からはくすくすと忍び笑いさえ聞こえてくる

そう
夜空の君こと振夜 瞳は神祖の一人からただの振夜 瞳にようやく戻ることができる

身に纏った夜装をほどき
小部屋の外套掛けに彼女のマントを憩わせる
この屋敷に住まう以前なら、欧州で過ごしていた頃ならば
恭しくこのマントにブラシを掛ける者たちもいたが、今は彼女が密かにしなくてはならない
けれどそれさえも嫌ではなかった

すべて放り投げてきたのだから

それだけの価値、いや価値を量ることすら無意味なほどのものを彼女は得たのだから
今この屋敷の一角に彼女のすべてが、
そう彼女がその身とそれに付き従うすべての特権や権力と引き換えにして
彼女に永遠をもたらしたものが眠っている

着替えを済ませ、部屋着になった彼女はその上に白い上着を纏う
画材に汚れたその上着
絵油の染みたその上着が、画材の匂いが『日常』を連れて来て、彼女を何より憩わせる
隠された通路を通って瞳は彼女のアトリエに戻り
画架に架けられた一枚の絵に目を落とす

彼女に全てを投げうたせ彼女に永遠をくれたもののかすかでそして確かな息遣いが
彼女の耳には聞こえている
それが彼女の周りにそっと満ちてきて
彼女の気息と重なってそして瞳は絵筆を走らせる

これを奉げる相手はもう決まっているのだ
どこか愉しげで静かな時間が彼女を包んでそして…
夜明けがもうそこまでやってきたのを彼女は知る
さすがに毎日徹夜しているなどと噂が立つのはまずいだろう
苦笑しながら瞳は上着を壁に掛けそして自室に密かに戻る

寝台に入り目を閉じるが枕に背を預けたままで
瞳はあの息遣いと再び気息を通わせる
ただそれだけのこの時間
屋敷に何人の人間がいようと
世界に何人の人間があるいは彼女の同族が、あるいはそれ以外の生き物が
どれほど満ちていようとも
今このときは二人きり
一人はわずかな残りの時間を終末へと向かう一息を、それでも安らかに呼吸し
一人は永劫の時を刻むそのかりそめの呼吸をまた重ねているけれど
二人きり

やがて
遠慮がちなノックの音が扉に響き
『おはようございます、お嬢様、お目覚めでございましょうか』
瞳の朝の目覚めがすこぶるに良い事を知っているメイドが遠慮がちに声をかける
「おはよう、起きています。 おじいさまはもうお目覚めかしら?」
瞳の返事に入室してきたメイドは
彼女の一番好きな光景を目にすることになるのだ
慕わしい、屋敷の誰からも愛されているこの屋の主の孫娘
彼女が仕える『瞳お嬢様』の朝の姿
窓からカーテンを透かして洩れる朝日を背にしてベッドに身を起こして彼女に答える姿

「はい、もうお目覚めでお着替えも済まされる頃と存じます」
「そう」
答えて微笑む『瞳お嬢様』
メイドの彼女がプロ意識を一瞬忘れそうになるくらい密かに好もしく思い続ける光景がそこにある
「なら急ぎましょう。お願いするわね?」
「はい」
このお姿を見られるなんて
瞳の着替えを手伝いながら今朝もそう思わずにはいられない

やがて屋敷に働くものたちはこの屋の女主人とでも言うべき『瞳お嬢様』が
お供のメイドに付き添われてこの屋の主の元に赴く姿を見ることになる
幸運にも彼女に出会ったものたちは
体調や家族のことを気遣う一言を掛けられる事を先程のメイドと同様誇りにしているが
それは瞳も知らぬこと

祖父の体調を気遣う瞳の優しい姿を屋敷のものは全て見たり聞いたりしているが
「おはようございます、おじいさまご機嫌はいかが?」
「おはよう、瞳 変わらず好調、ほかに言いようがないのがすまないな」
そんな祖父と孫娘の会話のあと
二人を気遣って二人だけにするものだから
また、密かにドアに聞き耳をなどとそんな無粋な気も起こさないものだから
その後の二人の朝の習慣を知ることもない

「おはようございます、あなた」
「おはよう瞳 ご機嫌がいいのはお前のほうかな?」

「わかる?」
「昨日帰ってきたときのお前の気配でわかったよ」
「うふ、おかげで筆も進みそう。きっとねいいのができるって思うの」

瞳は彼女の祖父
いや彼女の良人の唇に親愛のキスを重ねる
「お前のお友達とやらと会えたのかな?」
「ふふっ会えました、それにお手伝いしてもらったの」
「ほぅ、お前を手伝える?レディを思い出すなぁ。
 あの姿ではもう会うこともあるまいが昼間なら久しぶりにご挨拶くらいはできるだろう?」
「そうね、一度来てくれる様に頼んでみますね?うふふっでもね」
「ん?」
瞳は何事かを彼女の愛する人の耳元で囁いた
「なんと!そうかそうかそれはいい いや良いか悪いかはご当人には別だろうが」
にやりと彼の口に浮かぶ微笑は瞳のそれと肉親だと言ってよいほど似通っていた
永遠から比べればほんのわずかの時かもしれないが
人の身の尺度でならば、ずいぶん長い時を二人は過ごしているのだから

微笑みあった二人は
やがて次の習慣に移る
そう二人にとってもっとも大事な時間に
「さ、おあがり瞳」
「頂きます、あなた」
彼が首に巻いたスカーフを緩めるとそこには二人の徴(しるし)が現れる
彼のうなじに優しく牙をうずめる瞳
ほんのわずかな量
いやむしろ、もう彼が自力では排出できない身体の澱(おり)を
瞳が取り去ってやっている、実はそれだけの事でしかないとしても
瞳を思う彼が与えるそのひとしずく
それが瞳の糧となる

「おいしかったわ、お体の具合も良いわね」
「お前の食事を調理してやらんとな、こればかりはまかせられるものか」
「シェフ様のお手前痛み入ります」

他のものにはどう思われようと
瞳は彼と生きて永遠を手に入れた
ただ時を永らえるだけでは手に入らない永遠を

永遠をともに生きることはけして受け入れない
それを誓い合って短いわずかな時をともに分かち合う
そう決めたとき二人は永遠を手に入れた
人として生きてそして人外のものを愛すると決めた男
差し出された永遠をよしとはしない男
そして定めのままに永遠を生きる娘
けれど二人は今ここで
あとそれが残り何日いやこの日限りであろうとも
一緒に生きたそのことで手に入る永遠を
二人確かに分かち合っているのだから