「翼の夜」
闇が湿りを帯びて、重さをもつ、そんな夜
男はふらふらと闇の中を歩む、男の体から活力が抜け落ちてしまっているのが傍目にもわかる
だが、彼の目には、いや彼の目にだけ活力というよりも妄執めいた光が点っている
男はただ目指す、その先には彼が求めるもの、全てと引き換えにしても
彼が得たいものが待っているのだから
いや、もう男の中にはそんな想いなどは消え果てて、ただ自分を叩き付けてしまいたい
そんな衝動が彼を炙り尽くしている、それだけの事なのかも知れないが
やがて男は見つけた、闇が滴ってこぼれ落ちるその場所を
闇の中にあってなお昏くわだかまる姿
黒々と、艶やかにその姿を覆うのは重たげな、そしてわずかに蠢くようにも見える布地
だが、それに包まれたその姿はあくまでも白い
闇を弾くような白い肌
男は白く、そして黒々としたその姿の前まで進むと跪くようにくず折れた
白い闇が男のうなじに蒼ざめた唇を重ねる
男の双眸に獣じみた光が一瞬輝き、そしてふつりと消える
「五日…、短いな」
白い闇が言葉をつむぐその唇は、男の血でか、それとも精気のせいでなのか
赤く染まって闇の中に咲く花とも、またもっと生々しいものにも見えた
やがて白い闇が去ったあと、男がなぜか立ち上がりよろよろと闇の中へと消えていった
男はしばらくの後に列車にでも飛び込むのだろう
検死を行った医学者は流されたものの少なさに少し疑問を憶えるのかも知れないし
また、死体の傷に生活反応が出ていないように見えることに首を傾げるのかも知れない
だが、それは別の話し、語られることのない幕の外での話だった
第一夜」
春、苦手な季節
花粉症とかそんなものとは無縁な絵理花だがどうもこの季節は気分が重い
何かが起きそうな季節でもある
「絵理花、お呼び出しが来てるよ」
「聞いていい?誰からかな?」
「聞くまでも無いって思わない?」
「やっぱり?」
「当然でしょ?もう三回目、いい加減に出頭すればぁ?」
「だって、苦手だものあの人は」
「あの方って言いなさいよ、先輩なんだし」
「先輩で、生徒会長?美術部のスター?輝く美貌?憧れの先輩二年連続トップ?」
「理想の後輩2年連続ってのもあったらしいよ」
「その理想の方が私に御用ってわけよね」
「そういうわけ」
「わたし、ご遠慮したいかなって」
「そう言えば?直接ね、わたしの身にもなってくれる?」
「恵美を間に挟むって言うのも気にいらないんだけど」
「他にいないんだもの、絵理花が学校で喋る人」
「さすが、親友よね、だから親友のよしみでお願い、お断りを…」
「今までに2度言った」
「いや、ですからこのたびも」
「却下」
「うう、だから苦手なんだって」
「本人におっしゃいよ、二度と呼ばないで下さいって、
ついでに友人を巻き添えにしないで下さいって そう言ってくださると助かるよぉ」
「わたしが言うわけ?」
「はい、そのとおり、そうしてくださるとわたしも静かな学園生活が送れるの」
絵理花は学校にほとんど友人を持っていない
いや、友人を持つこと自体が少ない
フィーメルになる前ですら絵理花は友人の少ない少女だったが
それを苦痛にしたことが無かった
嫌われていたり、避けられていたわけではない
先ほどの先輩の話しではないが絵理花自身がいわゆるスターだったし
人から煙たがられるほど美人でもないことが逆にいい方向に作用して
なんとなく学校でもクラブでも絵理化の周囲に来ようとする人間は多かった
けれど絵理花は自分の周囲に集まってくる人間と一定の距離を置くようにしてきたし
そのことが判る距離まで接近した人間はそのあたりで接近をあきらめるのが普通だった
恵美は珍しく絵理花の方から接近した相手だった
学園という社会で快適に過ごすには
やはり最低限の情報源が必要だったし、そんな打算とは関係なく
絵理花を特別視しない気さくな人柄と頭の回転のよさが何より絵理花には好もしい
そして、その貴重な友人を介して
絵理花の苦手な先輩から今年になって2度も「出頭命令」が来ている
いわく「一度、お話がしたいから部室に遊びにいらっしゃい」との仰せではある
「大会に集中したいので」「大会が延期されまして」
先日の事件がらみの言い訳で何とか2回逃げをうって来た
だがどうやら年貢の納め時ということらしい
何より恵美にこれ以上負担をかけられない
覚悟を決めて出頭した美術部部室、昨年から実質上の生徒会の拠点
いや学園の校長室はここだというものまでいるが
その部室にその人はたった一人で絵理花を待っていた
流れるような黒い髪
青さすら感じさせる白い肌、そして薔薇の蕾にたとえるものすらいる紅い唇
薄い鼻梁が描くインカーブ、紛れもない東洋系の顔でありながら
その人はどこか東欧や北欧の血を感じさせる
生徒会長、振夜 瞳(ふりや ひとみ)
「夜空の君」と人は言う
直接二人きりということは無かったが絵理花自身もいわゆる学園のスターである以上
同席はしたことがあった
美貌とだけ言うのなら、これほど敬して遠ざけることはしない
なんと言っても彼女はタイプこそ違え大層美しい人の部類に入る姉妹を
身近に見知っているのだから
見た瞬間から『苦手』の二文字を背負って彼女は現れた
発言がいちいち『いい人』であるうえに、立ち振る舞いに隙がない
絵理花のように、密かに社会と折り合いをなどと企む人種にとっては苦手この上ない存在に思える
その上、生徒の事情に疎い絵理花の耳にさえ家がどうやらたいそうな資産家の家系で
などと聞こえてくると
お呼び出しを避ける気にもなろうというものだ
もっとも、絵理花が『夜空の君』様の召還命令を拒否したことは
既に学園の重大事件になっているらしい
「どうして?せっかくのチャンスでしょ?『夜空の君』様とご一緒できるなんて」
クラスメイトはそういうが余計なお世話というものだ
「お気に入りになって肖像でも描いてもらえたら凄いじゃない
個展開いてるプロなんでしょ?」
『なら、わたしの代わりに行ってらっしゃいよ』
言ってやる替わりに無言で微笑む絵理花の顔を信じられないものを見るように
クラスメイトが見つめるが
後ろで恵美は黙って肩をすくめて微笑っていた
恵美がいてくれて助かるな、例の姉妹と知り合ってから
そんな風に思う日が多くなった絵理花ではある
「いらっしゃい、絵理花さん、やっとお話が出来るわね」
窓を後ろにゆっくりと立ち上がったその人は逆光の中で光背を背負った聖人のようにも見える
「お呼び頂いて光栄です、振夜先輩」
「光栄と仰るけれど、なかなかお目にかかれませんでしたね?」
「い、いえあの、大会が迫っていたり、やり直しになったりしまして」
「優勝?1位でらした?ともかくもおめでとう」
「あ、はいありがとうございます、あの、それで、御用はなんでしょう…」
「あら、随分せっかちなのね?
せっかく来てくださったのだからそんなに急がなくっても良いでしょう?」
先程まで向かっていた机をゆっくりと迂回すると夜空の君はにこりと微笑んだ
瞬間に絵理花はくるりと先程入ってきたドアに向かい夜空の君に背を向ける
「まぁ。どうしたの、もう帰る準備?」
「い、いえ、あ、あの」
絵理花は背を見せたまま右掌を胸に押し当てて高鳴る鼓動を抑えるように
更に左掌を右掌を包むように被せる
「ちゃんとおっしゃい。どうしてこちらを見ないのかしら?」
「あ、あのわたし…」
かくかくと、かすかに震える絵理花の様子を知らぬげに夜空の君は絵理花の後方
いや絵理花の背後にひたりと寄り添って立った
「わ、わたし、せ、先輩のこと、かってに憧れちゃっていて、せ、先輩と
ふ、二人っきりになって、き、緊張してるんで…」
「ふふ、怖いものなんて無さそうな人だって思っていたのだけど?」
「そ、そそ、そんなことありません、よ、夜空の君様が、い、いえ先輩があんまり素敵な方だから」
夜空の君が絵理花のうなじに繊手じみた手を伸ばす
背後の気配を察してか、絵理花の緊張が極限にまで高まったそのとき
「絵理花さん、カラーが乱れていてよ」
さらりと言った夜空の君が白く細い指先で絵理花のカラーの乱れを緩やかに、
そして無駄のない動きで直す
「あ、あの、せ、先輩ありがとうございます」
「どうかしら?絵理花さんわたくしの妹にならないこと?」
「い、いえ、あの先輩、うちの学園にはそんな風習はないんですけど?」
「あら、そうだった?絵理花さんが欲しいならロザリオでもかけてあげましょうか?」
どうやら、女生徒憧れの先輩は少女小説もお読みであるらしい
ころころと笑う声がする
「し、失礼します」
ドアを押し開けて飛び出そうとする絵理花の背後から
「近いうちに、またお話しましょうね」
鈴の鳴るような声が追いかけてきた
「第二夜」
急ぎ足で遠ざかる校舎
緊張の名残ががまだひりひりと背中に痛い
整理がつかない先程の想い
そして、この先のことも気に掛かる
あの人は自分がここに通う限り何時でも顔を合わす可能性がある
そのたびに避ける?逃げる?
自分が?
フィーメルスパイダーが?
むらむらと胸の底で燃え上がるものがある一方で
黒々と自分を蝕むものがある
ひどい日になってしまった
今日は今から響子を訪ねるはずなのに
トレーニングのない久しぶりの日だというのに
このまま響子の部屋に直行するのは危険ではないかしら?
ぶるぶると携帯が震えて思わず絵理花は飛び上がる
測ったようなメールだ
「『気にせずにいってらっしゃい 紘子 』?」
見てるのかしら?
『やれやれ、こんなメールを送ってくるなんて、そんなにいらついているのかな?』
自分のほうからメールはおろか電話すらめったに掛けてこないのに
響子を心配するのはまだまだ早い?
『ま、響子に何か起きそうなら、あの人黙っちゃいないよね?』
そんな面白そうな話しに首を突っ込まない筈がない
『クールな振りをしたってさ。おせっかい焼きなのはそっくり姉妹』
最近は呪いの理由もわかる気がするのだ
『あのまま放って置けなかったんだよねぇ、響子に何かつかませて上げたかったんですよね?』
生意気ね、どこかでおせっかい焼きさんがくすりと笑った気がした
『問題はさ、わたしでいいのって事なんだけど?』
このことだけには答えが出せない、正直に言うと、まだ出したくない
『ずるいよね?わたし』
こんなことが起こるたび響子から遠ざかった方が良いのでは
そう思う自分と響子に縋りたい自分がいて嫌になる
響子が普通の人でないのをいいことに
響子から普通の幸せを取り上げてしまっているのではないか
けれど、そう思うのも不遜なことに違いない
響子の想いを無視して空想してしまっているのだから
答えの出せない想いがぐるぐると頭の中を巡るうち
絵理花は響子の住処にたどり着く
『こんにちは、けものさん、ご主人様のご機嫌はいかが?』
地下にいる響子の車に挨拶を送ると
今はエンジンの火が落ちて眠っているけものがちらりと挨拶を返した
どうやらご主人のご機嫌は良好ということらしい
だったら、自分だっていつまでも引きずっているわけには行かない
「響子さん!」
とりあえず飛びついてみることにした
「いらっしゃい絵理花さん、イメージチェンジ?その髪型も可愛いわね」
にこやかに迎えてくれた響子だが意外な感想がおまけについてきた
「え?髪形変えてなんかいないよ」
「ふうん、じゃこれはなぁに?」
響子に引っ張っていかれた姿見の中には響子に両肩を抱かれて立つ見知らぬお下げ髪の少女が
自分を見返して立っていた
「ツインテールも可愛いいなって思ったんだけど?」
「あ、あいつぅ、さ、さっきかぁ」
「あいつ?さっき? 楽しそうなことになってるのかしら?」
「うぅ、学校で、先輩にしてやられたみたい」
響子に促されて仕方なく先程の出来事を説明することになってしまった
うん、そうなの生徒会長なのね、そのひと
ところが二人っきりで目をあわせた途端に危ないって
ええ、そう思ったから背中を向けて気配を探って…
それから、こうやって右の掌を心臓から少しずらしてね
そう、ばれないように左掌で覆い被せて
もし、油断して近づいてきてさ、おかしなことしてきたら
自分ごと爪を伸ばして貫いて動きを止めてから
うん、その瞬間にアレ発動してやるつもりだったの
わたしだって痛いかもとは思ったけど
アレに貫かれる方は死ぬかそれともってさ
なのに、澄まして『カラーが乱れていてよ』って
落ち着き払って制服のカラーを直すんだよ
わたしの髪なんか触る素振りも見せなかったはずなのに
わたしのうなじにその人の髪の毛がはらはら掛かってさ
そしていい匂いのする息が…
でもでも、普通の人は気がつかなくってもわたしにはわかったよ
血の匂い、ううん、血を流させたことがある奴の匂い
だからその間ずっと緊張してたはずなのに…
「アレって姉さんからもらったあれ?」
「うん、だって、怖かった、ぞっとしたの、認めるのなんてやだけど
もし戦うなら一撃でしとめるほかに叶わない相手だって直感したの」
「それだけ必死だったのにってことね?」
「あ、あいつぅ、馬鹿にしてぇ」
「絵理花さんが気をとられているうちに髪の毛を悪戯されちゃった?」
「言わないでよぉ」
つけられたリボンごと髪まで引きちぎりそうな絵理花をなだめるでもなく
響子がリボンをはらりとはずす
まだ憤懣に当り散らしそうな絵理花が響子の顔を鏡の中で見返すと
優しく髪を梳きなおし
いつもの髪型に戻してやるとそれきりその話題には触れもせず
響子は料理を出してくれた
今日は完敗だった
手も足も出なかったが、次はこうはいかない
食事の後、響子のそばにいられる時間
響子は読書
自分はなんとなく教科書を広げてみたり、本棚にある画集を広げてみたり
持ってきた漫画を読んでみたりもする
いつもならただそれだけで、一緒に過ごせるそれだけで充足している一番好きな時間だが
今夜は自分の気持ちに異物が挟まったままでいる
悔しさにふと顔を上げると響子の微笑が自分に届いて
絵理花は今日はじめて響子の顔を見た気がした
「第三夜」
それから、数日
絵理花の学園生活は静かなまま過ぎた
『夜空の君』様はあれきりこちらに何の接触もしてこない
『自分の力を見たのなら、格の違いが解ったでしょってこと?』
黙ってはいない、ここは自分のいる場所でもある
喰い合うか、棲み分けるのか
二頭の野獣が一つの狩場にいるのなら選択肢は二つに一つ
あの時
はらはらと自分のうなじに掛かった長い髪
先日自分ががようやく落ち着いたあと、響子とも意見を交わしたのだが
二人の一致した答えはその刺激、それが引き金だったのだろうということだった
『夜空の君』の瞳の力にただならぬものを感じて視線を避けたのだけれど
結局背後の気配に気をとられている処に付け込まれたのに違いなかった
ならば
今度は逃げない
自分にだってサードアイの力がある
いや、正面から自分の精神力をぶつけるだけだ
かわそうとすればそこに付け込む隙が出来る
『それにね、気にしてる相手ほど付け込み易いのよ
がちがちに防御を固めてる相手ほど精神の平衡を崩し易いの』
それは知っていた、いや痛いほど、文字通りに痛いほど
先日経験を積ませて頂いた
『先に教えて欲しかったよぉ』
いったら、大笑いをされてしまったのは秘密だが
あとはどうやって捕捉するのか
今まで自分は『夜空の君』様を苦手な人とは思っていたが
同類とは思っても見なかった
だのに相手は知っていたらしい
いや知られたことさえ気付けずにいた
捉えきれるか?
おせっかい姉さんに先日教えられたことがある
『たとえ幻とかだって、あれで切れば相手は無事にすまないのよ
そいつが作ったものならば、そいつと因果がつながってるでしょ?
因果の鎖を伝わって相手はばっさり行っちゃうよぉ』
なんて便利な凄いもの、わたしに下さったなんて
そう喜ぶより先に
『マニュアルくれなかったのはどういうことです』
文句をいったら
『面白くないじゃん』あっさり言われて大泣きしたのも秘密の話だ
ともかく気持ちは切り替えた
泣き寝入りは趣味じゃない
結果、自分が死ぬのなら、自分が弱かった、ただそれだけのこと
おせっかい姉妹からあれだけしてもらっていて
それでも自分に勝ち目がないなら
獣としても生きるすべなどありはしない
自分が響子がいうような『ハンター』なのかどうかは知らないが
生きる場所を確保できない生き物がのうのうと生きていけるほど
独り立ちの生き物に優しい世界だとは思っていない
たとえこの場はこそこそ隠れて逃げ延びたとしても
自分の誇りが自分に牙を立てるだろう
少なくとも逃げずに相手の力を測ることすらできないというのなら
傷ついたプライドをどうすることもできはしない
そして今夜、本来苦手な満月の夜
フィーメルは下界を見下ろして立っている
時折雲が銀盤をかげらせるが
闇夜を歩むものならば血の騒ぎを抑えきれないに違いない
そう考えてここに立つ自分も
実は月夜に浮かれている口かもしれないが
以前自分の想い人から指摘をされたその日から
本能をさらけ出すことは愚かな事と身にしみた
生き延びる
何があっても生き延びる
おせっかいさんたちの助けを当てにしない範囲で無事に帰る
せっかくの好意は、後が怖すぎるから、むげにはしないが
それをあてにしているようなら
好意を受け取る資格もないのだ
『それが子供だって言うのよぉ』おせっかい姉さんのほうがどこかで文句を言った気もするが
こればかりは仕方がない
『ほかに生き方は知らない』のだから
春の夜風が心地いい
だが、今のフィーメルには自分にとって快適な温度である、
ただそれだけの心象にとどめておくように
自分をコントロールしきっている
そのことを悲しいと思うのならばここに立っていてはならない
ただ、そう思う心を枯らすつもりもありはしない
難しいのかもしれないが、知性を備えた獣でありたい
心を持った、けだもので居たい
それに耐え切れなくなったなら
想い人など持てるものか
どこか人などいない場所で独りで生きて命を終える
それまでだ
そこまで考えられるようになったのはせっかい焼きの姉妹と関わって
恵美や周囲の人間と改めて関係を持てるようになったことと
けして無縁ではないだろう
不思議なことだが最近自分がフィーメルでいることが嫌ではない自分がいる
いや、一歩進んでフィーメルの自分が好きだと思う時すらある
『夜空の君』にもそんな想いがあるのだろうか
そんな関係を持つ相手がいるのだろうか
自意識をカバーして油断なく周囲の気配を探りながらそんな思いに行き当たったとき
フィーメルの意識の端を異物のかすかな感触がざらりとなでて通り過ぎた
影すら地上にとどめぬように
闇を縦横に裂きながらフィーメルは夜を駆ける
一度捉えた感覚は
けして相手を逃がさない
今はフィーメルの中にふつふつとたぎるものがあった
冷たく燃えるこのものは獲物を滅ぼすそれまでは
自分を支える力となる
自分を冷たい刃と化して
夜空の蒼を身に纏って
フィーメルスパイダーは夜を貫いた
「終の夜」
きんと冷えあがった感覚が導いてくれた場所
フィーメルはターゲットを密かにうかがう
銀の光がそこだけ避けて黒々とした闇を作る場所
そこに、いた
いや、闇より暗いその者が一人の男をむさぼっている
男の顔には獣じみた妄執が
次には恍惚が
そして最後には呆然とした無感動な表情が次々と入れ替わって見え
やがて首筋をむさぼっていた紅い唇が離れると
男はゆらゆらと元来たのであろう闇の中に姿を消した
『あと2回、いや3回は喰えるのか、もちが悪い』
皮膚に青いほどの白さをたたえながら闇より暗いその者が不満げに独りごちて姿を消そうとした時
その者は自分の行く手に佇む異形の姿を眼に止めた
「今晩は、いや、ごきげんようかな?先輩」
「お前は…」
「ここは、わたしの狩場でもある、派手にやるのはよしてくれると助かるな
あの調子で何度か食べたら死ぬだろう?
ローテーションでもするのかと思ったが、そんな大人しい台詞じゃなかったな?」
「………」
闇より黒いそのものの表情は乱れて長い黒髪が顔に掛かって容易に読めない
闇の中には黒髪と黒々とわだかまるマント
時折マントがうねうねとうごめいて裏地の緋色が顔を出す
青みを帯びた白い頬、それが乱れた髪の間から現れて不快げにひくりと震える
「そちらも表の顔があるだろう?
あんたたちみたいなのはもっと優雅にやるものと思ったが
こちらの勝手な思い込みだったか?」
「黙れ」
「何か言ったか?」
「黙れ、作り物の分際で、気高い闇の眷属(けんぞく)に、さかしらな口を利くでない」
不思議なことに直接向かい合ってしまうと
先日の恐怖がすっかり抜け落ちていることにフィーメルは気がついた
確かにそれは美しい
けれど少しの怖さも今は感じない
美術室で聞いたはずのあの鈴がなるような声音にも怒りのためか
ほんのわずかにひび割れが混じって今は不快にすら聞こえる
「作り物とはわたしのことか?」
「その口の利きよう、礼儀も知らぬ半端もの、おぞましい人間どもの産み落とした作り物
それがお前、気高いこの眼にははっきりわかる
おぞましいその身を恥じて我が前にひれ伏すがよかろう」
乱れた長髪の中から金色の眼が覗く
魔眼がフィーメルを縛り上げようと輝きを増す
だがフィーメルは力の視線を避けもせずただ自然体で立ったまま
その視線をやり過ごした
『作り物』
いやな言葉だ
だが、今は何故目の前にいるものがそんな言葉を投げたのか
ただそれだけに興味が湧いただけに過ぎない
先日のご対面の時ならば
こんな言葉を投げなかったのではないか
自分を牽制したいのか
まさか自分が怖いのか?
こんなものか、一方的に自分を知られた驚きが自分を恐怖で縛り上げていたのか
いざ危険に直面してしまえば恐怖心より先に湧き上がるものがあるのだろうか?
やはり自分は戦闘向きの生き物
そう、それこそ作り物の戦闘生物なのかもしれないな
その想いがフィーメルのどこかを通り過ぎ
フィーメルの口元にわずかな笑みを刻む
「笑うなぁっ」
闇が生白い腕を伸ばして挑みかかる
指先からのびた鋭い爪
攻撃に乗せられたパワー、スピード
充分必殺のそれだろう
だが、人にとってはという程度のものだ
フィーメルにとってなら、なんと言うほどのものでもない
伸ばした爪を斜めに捌いて軽々と受け流す
そのまま相手の体勢が崩れた処に乗じて真に必殺の一撃を返すことも出来る
だが、反撃をしない
いや、その寸前で踏み止まったのは
美術室での一件が頭の隅を占めていたからに他ならない
あまりにもやすやすと見切れるレベルの攻撃だったからだ
何かがあるのではないか
隠された何かを出すために
単純な攻撃をして見せたのではないのか
フィーメルのどこかが危険を告げている気がする
いらだったのか、もう一撃、先程よりも速く強力な攻撃がフィーメルを襲う
しかし速さと、力を乗せるために
攻撃自体に柔らかさがない
『こんなものだったか』
唇の端から笑みが消えたのは
もう、どんなものを隠していようと
目の前にいるものが自分を殺せないという確信のせいだった
後は作業にしか過ぎない
今度こそフィーメルを捕らえるはずの一撃は
フィーメルがその場で上半身をひねっただけでかわされた
崩れてフィーメルの目前を流れる白い闇
がら空きの心臓にフィーメルの爪が突き立つその瞬間
白い闇にぬめぬめと光る唇がにやりと歪んで
生々しく紅い肉片の中から少し黄ばんだ乱杭歯が剥き出され
フィーメルの一撃が捉えるはずの心臓は黒い羽ばたきの群れに姿を変じた
きぃきぃきぃきちきちきち
不快な音と羽ばたきが膨れ上がってフィーメルを包み込む
その瞬間に黒い羽ばたきの中から不可視の刃がフィーメルを取り囲み
同時に何本も何本ものびてきてフィーメルの身体を裂いていく
フィーメルの身体が裂け幾筋も血が流れ出る
「愚か者、下賎の者が気高い…!」
勝ち誇るように羽ばたきの中から発せられた声は
フィーメルの頬に、今度こそはっきりと浮かんだ笑みに途切れたようだった
確かに痛い、身も切れる、そして急所を貫けばフィーメルの命を散らすことが出来るかもしれない
だが、それは急所にあたればという前提をはずせない程度の攻撃でしかなかった
切られた皮膚は次々とふさがっているし
背後から襲う不可視の刃の軌跡さえフィーメルの感覚がはっきりと読んでいる
ついこの間、自分を切り裂いたものはもっと剣呑なものだった
一撃に触れようものなら皮膚などでは済まず
五体の脱落を覚悟せずには済まない物だった、その上一撃の殺到は読めたとしても
攻撃の間隔は最後まで読みきれるものではなかったのだから
そして、いまフィーメルの爪が次々と羽ばたきを消し去っている
地に堕ちた羽ばたきは塵とも灰ともつかぬものに姿を変えて
夜風の中に溶け去って行く
フィーメルを捉え得た攻撃が致命の攻撃でないと悟ったのか
黒い羽ばたきが再び集まって白い闇を再び形作ったが
もうその姿には先程の早さも力も残っていなかった
『もう消えてくれ』
白い闇の心臓を貫く一撃を無言のフィーメルが放とうとするその寸前
フィーメルはありえないものを見た
白い闇の心臓の場所から薄薔薇色の腕がフィーメルに向かって生えている
背中を戦慄が走る
まだ隠し技があったのか?
だが、白い闇の伐娑羅に乱れた髪の中に驚愕が浮かび
自分の背後を確認しようと醜く歪んだ顔を後ろに向けようと
無様にあがいたようだったが
その足掻きは達せられぬまま白い闇は灰色の塵となってその場にぼさりと崩れ落ち
一撃を与えようとする姿勢のまま動きを止めたフィーメルの目前には
薄薔薇色に彩られた可憐な闇が
先程の白い闇から奪い取った、まだ動きを止めない赤黒い心臓を右腕に握って立っていた
「ごきげんよう、それでよかったかしら?」
星の光を集めてほのかに輝く腰まで伸びた黒い髪
薔薇色の赤みがさす白く艶やかな皮膚
身体には繻子(しゅす)かと見える光沢を帯びた黒い衣裳
そしてさらりとはだけられて肩を流れるのは天鵞絨(びろうど)のマントか
紅唇にあえかな笑みがはらりと浮かぶ
夜気を呼吸して立つその人の薄薔薇色のその頬が
昼の時間をかりそめに過ごす生き物と
その人の真の姿を
何より雄弁に語っているようだった
「『夜空の君』…様…」
今、このときにこそ、その呼び名はふさわしかった
「うふ、えっと今のお姿の時にはなんとお呼びすればよろしくて?」
まだ蠢いていた赤黒いものを彼女はくしゃりと握りつぶす
肉隗は彼女の手の中で青白い炎を出して燃え上がり
一瞬で燃え尽きると先程の塵を追って消えていった
「『フィーメル』とでも』
かろうじてフィーメルが返す
「『フィーメル』?女性のって意味かしら?
いいわ、フィーメルさん、では、まずお詫びを言うわね」
「お詫び?」
「そう、こいつってね、フィーメルさんが見た通り、大した力もないくせに
食い意地だけは一人前、その上臆病者でねぇ
わたしが近づくとあっという間に消えるものだから始末が出来なくって」
夜空の君は手にかすかに残る白い灰をふぅっと吹いて風に飛ばした
「結局あなたの力を借りてしまったわね、ごめんなさいねフィーメルさん」
一礼して夜空の君はフィーメルに頭を下げた
「結局?」
「そう、あなたの狩場におかしなのが入り込んでいるから気をつけてってね
お話するつもりでいたんだけれど」
「あ、あの時に…」
「ええ、だのに背中を向けちゃって針ねずみ見たくなってたでしょう?
だから、あなたには悪いなって思ったけれど挑発させて頂いて
さっきのお馬鹿の気を引いてもらおうかなって」
上目遣いに夜空の君がフィーメルをちらりと眺める
その視線には例の力がこもっていて
敵意こそこもっていないがフィーメルに圧力を感じさせる
けれど耐えられそうだった
本気でこられたらどうかな?
だが、何とかなるだろう
何より怖かったのは、やはり知らないという恐怖
そして一方的に自分だけ知られていたのだという驚きだったのだろうか?
「似てましたね」
「ああ、あいつのこと?、間違えちゃったの?失敬しちゃうな」
夜空の君がころころと笑う
「わたしを以前見かけたらしいの、
力あるものの姿を借りればそれなりの力を宿せる、解るかしら?」
「なんとなく、ね」
「なんとなくか、ふふ、わたし達の方ではそんなものなのよ」
懸案を片付けたのが嬉しいのか、夜空の君様には屈託がない
フィーメルはもう一つ気になることを聞いてみた
「何時から知ってたのか聞いても?」
「普通じゃないのは入学式の時からね
フィーメルさんの方の姿を見たのは半年くらい前かしら?」
「気付かなかった」
「物の見方が違うのね、視点を変えれば解るわよ
あるままに見る、それだけ」
「それだけ?」
「あはは、そのうち出来るわよ
敵意にばかりにこだわり過ぎなんじゃない?
それはともかくフィーメルさんの縄張り荒しをする気はないし
今回のは借りにして置くってことでいかが?」
「借りですか…」
フィーメルの脳裏に先日の体験がちらりとかすめる
「あら、不満?」
「先輩、わたし貸し借りってのはちょっと事情があって止めてるんですよね
その替わりにちょっとお願いしても良いですか?」
「あら、なにかしら、いいわよ出来ることならね」
フィーメルは、この出来のよすぎる先輩を少し苛めてみたくなった
「じゃ、いーってして見せてください」
「いーっ?」
「はい、この際ですからね、本物の吸血鬼さんの牙なんてなかなか見れないもの」
いくら夜空の君様だってそんな顔すればなかなか見ものになるだろう
「あら、牙をね」
フィーメルを睨む眼にちらりと困惑が覗いた気がしてフィーメルは少し溜飲が下がったが
「じゃ、これで良いかしら?」
夜空の君はフィーメルに特上の笑顔を投げてよこした
「あ、それは…」
約束が違うと言う間も無く
闇の中に真白い牙と笑顔の残像が残されて
夜風の中にしばらくの間、夜空の君の笑い声さえ残っているようだった
エピローグ 『翼の夜』
何時の間にか、春もたけて、
もう桜も終わろうかというその日
絵理花は教室で恵美と屈託のないおしゃべりを楽しんでいた
あれきり夜空の君様のお呼び出しもなく
絵理花の学園生活は平穏そのもの
実は昨夜響子から
週末に久しぶりの里帰りに付き合わないかと誘われたのだ
きけばあちらはまだ桜の真っ盛り
人無き里の観桜会というわけだ
今年は向こうも少しは賑やかになっているわけだし
紘子の顔を見たくもあった
こんな風に過ぎていけば良いのに
来年も、再来年もその先も
風に運ばれて桜の花弁が一枚教室の中に漂ってきた
それを掌に受けようと手を伸ばしたそのときに
絵理花の背後でざわりと生徒たちが声をあげかけて
次にぴたりとなりを鎮めた
『ま、まさか』
いや、もう背中の感覚が教えている
『うーっ、堪忍してよぉ』
「こんにちは、宮野さん」
「こんにちは、振夜先輩 わたしになにか?」
覚悟を決めて振り向いた絵理花の目の前には厚みの薄い長方形の包みを差し出す
夜空の君の笑顔が在った
「先日はお世話様、拙いもので恐縮だけど、これ先日のお礼の替わりなの
受け取っていただけるかしら?」
「先輩の?」
「そうなの、絵の具代くらいしか掛かっていないから申し訳ないけれど」
何を言うのだこの人は
この人はもう既に1号いくらと値のつく作家ではないか
この大きさで幾らになるのか画商を母に持つ絵理花は
興味こそない世界だが先輩の絵の価格くらいは知っている
「だからね、お願い絵理花さんに受け取って欲しいの」
うむを言わさぬ呼吸で包みを絵理花に押し付けると
夜空の君は笑みを残して引き上げていった
「見せてもらえる?」恵美が聞く
自分も確かに気にはなった
だが、とんでもないものが描かれていたならどうしよう
意趣返しをされるほどあちらをやっつけた気もしないし
むしろやつけられたのは自分のほうだが
意を決して包装を開いて見ることにした
クラスメイトたちも集まって
伝説の先輩の新作を一目見ようと取り囲む
中には絵の題名らしいものを書いたカード
『「翼の夜」?タイトルだよね?』
そして開いた包みの中の絵は
「きれい、天使様かしら」
「黒い羽根の天使がいる?」
幻想的な絵であった、何時ともどことも知れない場所
黒い翼を備えた人物が夜の街を、石造りの街を見下ろしている
そしてその視線の先には「窓」が
絵理花には解った
一体、いつ、こんな風に自分は見られていたのだろうか
翼を背負った人物は自分
そして自分が視線を向けるその窓は
黒い天使が憧憬とも悲しみとも愛情ともつかぬものを注ぐその窓は
想い人が住まう、その窓に違いない
そして
自分を見つめるその目線
敵としてでもなく、異形の友としてでもなく
在るがままに自分を、そして世界を見つめるその目線
それが夜空の君が自分を見る世界
それに違いない
『こんな風に見てるんだ』
そう理解したその瞬間
一瞬の眩暈とともに絵理花の眼は新たな世界を見つめていた
いる、今まで感じもしなかった夜空の君が
上級生の教室から自分に笑顔を送ったのが解った
そして自分のすぐそばにもうひとり…
『きゃぁ』
『何時からいたんです?』
『え、えっと』
『そんなに心配していてくれたんですね、紘子さん』
『ち、違うわよ、絵理花さんのそばには面白そうなことが起こるからに決まって…』
『ありがとうございます、週末に行きますね』
『何さ、急に大人になっちゃって、つまんない、つまんない、つまんないーだ』
憎まれ口をききながら笑みを含んで消えていく気配
響子がいる世界
紘子がいる世界
恵美もいれば
夜空の君さえいる世界
案外世界は愉しい場所なのかもしれないな
桜の花弁がまた一枚
絵理花の前に漂ってきた