「抱 擁」

                    


…白い私を、抱こうというの?
…白い私を、抱けるというの?





「っ、ぁあ…。」
どうやって、叫びを出さずに済んだのか解らない。
絶叫は、かろうじて喉の奥で止まってくれたようだった。

跳ね起きたベッドの上で、汗にまみれたパジャマが乱れている。
目の前に広げた二つの掌を絵理花は見つめる。
何の夢だったのか、何故掌を見つめているのかそれさえも解らない。
けれど、ここしばらく絵理花は何かを夢に見て、そして声を上げそうになって飛び起きる。
その時いつも目の前に掌をかざしている自分がいる。

再び、眠りに就いた時、今度こそ絶叫してしまうのではないか、
悪夢を見るその事よりも、自分の中から見知らぬ自分が叫びを上げそうで
寝具に潜り込みながら、今夜ももうこの後の眠りはないことを絵理花は知っていた。


うつらうつらと、眠りと目覚めの境を漂いながら
何があったのか、ここしばらくの事を、思い出してみる。
何より大きな事は、響子と逢えない事だろうか?

「ごめんなさいね、どうしても断れないお仕事なのよ」
「気にしないで」
「一月ぐらいかしら、愛人失格ね」
「私だって、毎晩逢いに来てるわけじゃないもの」
「そういえば、そうよねぇ。でも電話も通じないと思うの」
「うそ、今時そんなところがあるの?」
「みたいよね、でもそんなことより正直に言うと、お門違いって思うのよねぇ」
「お仕事のこと?」
「そう、お化け退治なんてさ」
「できるの、そんなこと?」
「出来やしないわよ、そう言ったのよ、でもそれでも良いからってさ」
「心強いからって?」
「そうなのよ。何より柄じゃ無いって言ったんだけどなぁ。今更、巫女さんだのの真似事は
 似合わないって思うのよねぇ」
「似合ってるとかいうよりも…」
「あら、なぁに?」
「ううん、なんでも」
「いいなさい」軽く響子が睨む。
「えぇとね」
「はい、なにが似合ってるって?」
「いえ、あの、あのね」
「いいなさい」
「退治するよりも…、あの、ええっと」
「ははぁ、化けて出るほうがって言いたいのかな?」
「そ、いえ、あの」
その夜が明けるまで絵理花は一睡もさせてもらえなかった。

そして、翌日
「なにかあったらね、姉さんに電話するのよ」
それを繰り返し絵理花に言い聞かせると、響子は『けもの』を駆って出発したのだが。

『もうあれから20日も経つけど…』
一度の電話も掛かってこない。
では、響子がいるときに電話が掛かって来ることが度々あるのかというと
そんなことはなかった。
絵理花のほうからもほとんど電話はしていない。
ただ、自分がそこを訪ねれば、いや、響子の窓の近くを通るだけでも
響子がそこにいる、それが分かるだけで安心できたのだと
いまさら気づく自分がいたのだった。

次の夜
絵理花は「外出」をしてみた。
いつもなら彼女に力を与えてくれるはずの闇がなぜか今夜はよそよそしい
世界が自分を拒んでいる、そんな気さえしてくる
経験上、そんな風に、しっくりと来ない夜は危険だということを
絵理花、いやフィーメルは知っている。

『もう、今夜は引き上げよう』

彼女の「縄張り」で、とある街角に差し掛かったとき
先刻からの「違和感」が彼女が設定している許容範囲を超えた。

体を翻して、闇に溶け込もうとしたフィーメルを堪らない違和感が襲う

『違う、そっちは駄目』

かろうじて、足先にこめた力で身体を踏み止まらせると、
身体の捻り、そして両手の最小限の振りで向きを変える
かっ、しゃこー
閃光が走った後、間の抜けた機械音がする。

つい先ほどフィーメルが進もうとした場所を光と携帯の撮影音とが襲っていた。







 反射的に進もうとする方向、だがそちらにも違和感が立ちはだかる
体重を抜き、右手を壁に引っ掛けて3メートル程真上に飛び上がる、
その瞬間にまた光と撮影音が先ほど踏み止まった場所を襲った。

左手の爪を展長して向かいの壁を引っ掛ける、強引に身体を引き寄せると
左足で壁に足ががりをつけてさらに上、複合ビルの上方へと身体をはじき出そうとした時
まだ違和感が身体を離そうとしていない事に気がつく。

『上、危ない、ここ!』

爪、足、上方への跳躍に供えて緊張した筋肉が悲鳴をあげそうだ
理屈ではなかった、
一瞬、いや時間の制約が解かれた心だけが支配できる瞬間。

『…!』(「爪!」)

爪だけに意識を集中する。
上方に向かって光と音が連続する。
地面に向かって自分がはじき返されるその刹那の中、仰向けのフィーメルの眼を月がかすめた。

先程フィーメルが思い描いた跳躍の軌跡を追って連続する光と音が追跡する。
一人では無い、そう感じながらフィーメルは
月に重なる「その人」を想い、そして、「その人」が貸してくれた物を心の言葉にした。

『Night Mist』

仰のけのまま、背中に回した両手、反り返った両足は音も無くフィーメルを地上に繋ぎとめ
意識すらもう心の中に召喚した夜霧に溶けながら
彼女は今度こそ追跡から逃れて
身を翻すと彼女の棲家とは逆の方へゆるゆると消えていった。


「絵理花さん、大丈夫だったの?」
「よかった、逢えたもの」
「何時だって、いるわよ」
「だっこ、だっこしてぇ」
「仕方ないのねぇ」
「いいから、だっこ」
「これでいいの?」
「怖かった、怖かったの、辺りがみんな私に敵意を向けてくるの」
「それで、来ちゃったのね?」
「ごめんなさい」
抱きしめられる両の腕に力がこもる
このままこうしていたい、ずっと響子に抱きしめられていれば怖いものなど何ひとつ
何ひとつありはしないのに。
だが、ふと気づくといつのまにか響子の両手から力が抜け落ちて
その代わりに絵理花の両手が生暖かい液体にぬれていた。
くず折れる響子
支えようとした絵理花の両手、そして誓いの爪は再び朱の色に染まって・・・。
「・・・ぁ、ぁあ、ぉあああっ・・・」

愕然として目覚めた身体を夜気が抱きしめる

とある高層ビルの片隅
どこからも監視を受けないその場所はフィーメルの待避所のひとつ
ナイトミストを召喚したことまでは覚えているが
その後は、しばらく意識もないままで動くしかないのだ

「その人」が遣わした闇の中ではフィーメルは自分を保ったままで自在に動けたが
見様見真似で心に喚んだ(よんだ)闇はまだ未熟
今のところナイトミストは「その人」が貸してくれた闇のまがい物でしかない
そして、安全なはずの退避所に身を隠して、そのまま眠ってしまったのだろう
そしてまた悪夢を。

だが、今こそ絵理花はおぞましい夢の中身を知った
そして見つめる両の手に何を見ていたのかを。

『違う、こんな形じゃない、違う、私と響子の誓いはこんな・・・。』

いつもならかろうじて喉の奥で止まった悲鳴
だが今は、今だけは止めるつもりもなかった。
喉の奥、いや身体の奥底から、今は悲鳴ではなく怒りを帯びた咆哮が迸る
怒りが、怒りが絵理花を抱きしめる。

『許さない、私を、響子をそして誓いを嗤う(わらう)やつ!』

言葉ではなく獣の、誇りを汚された獣の咆哮が長く尾を引いて大気を揺らしていった。

この場所ですら、もう安全ではないかもしれない
いやそう思うべきだろう
だが、眠れぬ夜がフィーメルから活力を根こそぎ奪ってしまっている
悪夢にうなされる眠りは、本来ならば
一日にわずかの時間を切れ切れにとるだけで満たされる眠りの替わりにすらなっていない
いくら精気を採ったところで、この状態の解決にもならないのだ。

先程、怒りによって押し込められた疲労が再び彼女を襲う
闇を喚ぶどころか、辺りが霧と闇に閉ざされている気がしてくる

『ここは?』

ふと、見慣れた風景に気づくと
フィーメルはそこが一番自分が来たかった場所
そして、今は、来ても意味のない場所だと気がついた。
今は、明かりの消えた暗い「窓」
たった一つ自分にだけ開かれているはずの「窓」
響子の窓が眺められるフィーメルのお気に入りの場所だった。

『……』

『……』

『……!』

呆然とその窓を眺めていたフィーメルは窓の奥
今彼女が一番訪れたい部屋に間違いようのない気配を感じた
縋ってはいけない、だが一番縋りたいその気配
響子の気配に違いない

足元が宙を踏むようだ、しかしそれでもできる限り気配を隠して
忍び込んだ暗い部屋、鍵は何時ものように掛かっていない

「響子さん!?」

黙って振り向く白い人影が微笑ってフィーメルを迎えた。

『夢じゃないよね?』

そう聞くのが怖かった
言った瞬間先程の悪夢がまた再現されそうで
そういう代わりに抱きしめた響子の身体には
温もりも、そして確かな手触りもあって
抱き返される身体と共に
心まで安堵が抱きしめてくれている。

抱擁するままに、されるままに
そして口付けが交わされ
彼女の愛撫にその人影が応え
二人は寝台に縺れ合って横たわり
絶え絶えに洩らす吐息の合間
終わることのない抱擁
そして、彼女は身内にするりと入り込む響子の魂そのものを迎えいれた

『……!』

味わったことの無い感覚
フィーメルの中にある響子の一部がたまらない切なさを与える
その間も交わされる愛撫の中で今度はフィーメルの、絵理花の魂が
響子の中に吸い出されるように入り込むのを覚えた
響子の中にある自分が、今、自分の中の響子が与えてくれる切なさを
同じように与えているのがはっきり判る
自分の中で切なさが大きくなれば
響子の中で切なさが膨れ上がるのが判る
互いの愛撫が互いを昂ぶらせているのが判る

交わされる喘ぎがさらに二人を昂ぶらせていく
そして眩しく、昏らい輝きが二人を、世界を照らして
フィーメルは悪夢の無いやさしい眠りの抱擁に
疲れきったその身をゆだねた。






 心地のよい眠りの中で絵理花は自分をくすぐる感覚に惹き付けられた
それに惹かれて何日ぶりかにとった安らかな眠りから呼び戻されても
それを不満に思うどころか、身体に満ちる精気に
自分が響子からどれほどのものを与えられているのかと
いまさら絵理花は気が付いた。

先程から絵理花をくすぐっているのは
ダイニングからほのかに漂う料理の匂い
何時も彼女に力をくれる響子の料理の匂いに違いなかった。
ベッドサイドに置かれた時計はまだ3時過ぎ
ダイニングを覗き込むが響子の姿は無い
替わりに二人分の食事が湯気と芳香を立てている
普段なら響子が食卓に戻ってくるのをおとなしく待つ絵理花だが
今夜は我慢ができなかった

温かいスープ
簡単だがたまらなく美味しいオーブンから出たての
チーズの乗ったパスタ
そして手作りに違いないドレッシングの掛かったサラダ
添えられた熱いコーヒー

お行儀を考えるまもなくすべてが絵理花の喉を通り過ぎていった。
そしてふと気が付くとあの気配

「ごめんなさい、響子さん、つい先に…」

言いかけた絵理花の前には少しあどけない表情と
深い叡智を思わせる印象的な瞳の女性
月に重なる「その人」がにっこり笑って立っていた。

「あら、お目覚めね、絵理花さん、どう私の料理は?」
「きゃぁっ!ひっ、ひ、紘子さん…?」

「なによ、人をおばけみたいに」
「そ、そんなことより、あ、あの響子さんは、どこいっちゃたの?」
「いやしないわよ。絵理花さんの知ってる通りで、お出かけ中」
「え、ええっ!で、でも、でもさっき、わたし…、私、響子さんと、あ、あの」
「だからいないの、最初から」
「じゃぁ、じゃぁ、さっきのは、ゆ、め?」
「うふふ」
「ま、まさかぁ」
「うふふふぅ。ご馳走様、絵理花さん」
「ひ、ひっ、ひどい、ひどいよ、わたしと、私と響子さんとのこと大事にしてくれてるって
味方だって思ってたのに」

「…」紘子が一瞥(いちべつ)を寄越す。
絵理花は視線に耐えかねて思わず黙り込んでしまう。

「ぼんやりしちゃって、響子と私の区別が付かなかったのは誰?」
「…」
「ちょっと気配が似てるからって無警戒に飛び込んできて、好き好きって言ったのは?」
「……」
「あげく、最後まで気が付かなかったわよね!」
「………」
「そのうえ、寝込んじゃう? はん、随分お気楽な狩人さんだこと」
「あ、あの、ご、ごめ」
「ひどいですって?味方だと思ってたのにですって?」

絵理花は無言のまま涙を、久しぶりの涙をあふれさせた。
呆然と涙をこぼし続ける絵理花の頭を紘子がそっと抱き寄せる
肉の重さを纏わない、だからこそ温かい紘子のぬくもりが絵理花を包み
絵理花は声をあげて紘子の胸にすがって泣いた。

「うふふ、いいでしょ、たまには泣いてみるって」

思わず見上げた紘子の顔はやさしい姉の慈愛にあふれている

「紘子さん、じゃそこまで考えて…」
「ま、役得ってことね」
「役得ですかぁ?」
「うふふ、美味しい所を持ってくのは年長者の特権ともいうかしら?」

この人の年長者になれる人はいないという反論を絵理花はぐっと押さえ込んだ。

「言って置きますけどね、絵理花さんが電話掛けて来ないのがいけないのよ」
「はい?」
突然変わった話についていきかねて絵理花は涙目を見開いた。
「あれだけひどい目にあって、手に余ってるのに、響子だっていないんだから
言ったでしょ、本当に困ったら何時だって構わないって」
「あ!」
「あ、じゃ無いんだって、おかげで響子ったらテレビで電話をかけるようなことまで」
「え、テレビ電話ですか?私には電話もくれないのに紘子さんにはそんな便利なもので…」
「違うって、喩え(たとえ)よ、喩え。テレビで電話をかけてきたの」
「はぁ?」
「あのね、どうも響子ってば身動きが取れずにいるみたいなの」
「病気、事故、まさか、そんな命に」
「やれやれ、どこが『ハンターさん』なの、ちょっと落ち着きなさい
響子といい、絵理花さんといい、お互いのことになるとこれなんだから、ちょっと待ってね。」

紘子は暖かいココアを淹れて差し出した。

「え、ええっと、あのぉ、これって飲んでも大丈夫で…。あーっ!」
「くくく、でしょ、さっきもう食べちゃってるじゃない」
「う、ぅ。あ、あのあの」
「あははっはははは」
「わ、わたしどうなるんでしょう」
「心配ないって、さっきの材料はご近所の深夜スーパーで買ってきたし、今のは響子の買い置きよ」
「じゃ、じゃ大丈夫なんですね、わたし」
「毒殺魔みたいに言わないで頂戴ね。響子に料理を教えたのは誰だって思ってるのよ?」
「紘子、さ、ん?」
「そのとーり。まぁ、私の料理に頭が廻るくらいには成って来たってことね
ほら、安心したならお上がりなさい、私もお相伴するから」

紘子が自分の分を持って絵理花を食卓に座らせる。

暖かく甘い飲み物が身体を満たしていく。
絵理花がようやく頭を巡らせ始めたと察したのか紘子が先程の話を持ち出した

「えっと、テレビで電話ってお話だったわね。」
「はい、どうやって掛けるんですかそんなの?」
「今ね、響子ってば、えらく山の中の辺鄙なところで立ち往生してるのよ

 はいはい、ちゃんと話してあげるって。
 そうよ、命や身体に別状はなかったの。
 また、喰い付かないの、『今も』危険な訳じゃないから。


 頼まれて、断れずに出かけたのは良いけれど
 響子が着いて見るとちっともおかしな事なんて起こらないの
 4、5日様子を見てても何も起きない
 それどころか、何も起きないのが当然って顔を皆がしてるの
 さすがに、変だなって黙ってお暇乞いをしようとしたら
 村に通じるたった一本の道路が崖崩れで身動き取れないってことになっちゃったの

 それどころか、崖崩れの前に物凄い爆発の音がしたらしいんだけど
 誰もそんなこと聞いていないって言うでしょ
 昔はともかく今なら復旧工事だって
 あっという間に進めるわよね、マスコミだって騒ぐでしょ陸の孤島って
 でも聞いてないでしょそんな話

 ところが食糧なんかはヘリで投下してくれるらしいんだけど
 誰も助けあげようとかしないし
 工事の方はちっとも進まない

 この際、響子のお客の、つてを頼ろうとして
 警察とかに無線機を借りようとすると壊れましたって言われるけど
 壊れたんじゃなくって壊したでしょって感じでそのままになってる

 どこの誰かは判らないけれど、誰かが響子を足止めしたいって事よね
 自分に敵意を向けてくる奴がいれば響子だって黙っちゃいないでしょうけれど
 どうも皆の頭に霞が掛かってるって響子は言うのよ
 それでね、夜こっそりと村の神社に忍び込んで
 無理やり私に繋いだの

 えっ、だから、もうちょっと待ちなさいって
 響子の部屋と、私の部屋、どうしておんなじ形にしてあるか判る?
 あのね、形が似ていて、お互いに近しいものがそこにいれば
 この世より、もっと上の世界から見ればその二つはほとんどおんなじに見えるの
 絵理花さんから見たら紙に書いてある三角と三角なら、三角ってことで同じに見えるでしょ
 だから繋がり易いし、繋ぎ易いの

 私だって響子のことが気になるの、
 私の一部を持って行っちゃってるからねあの子
 え、聞いてない?
 そうよ、村を出るとき、響子をこの世に繋ぎ止めるのに、私の一部をね

 だから、わたしの部屋をそっくりさんにしてもらったのよ
 で、形は似てないけれど
 機能は似てるって神社同士ならってそこを使ったらしいのよ

 でも、そうそううまくいかないのよこれが
 おんなじ三角同士でも赤い三角と白い三角があればまず色が目に付かない?
 まぁ、そんな喩えなんだけど

 そこを無理やり自分の命を削るようなことをして
 私にともかく繋げて来てさ、開口一番何を言ったと思う
「絵理花さんをお願いよ」だってさ
 呆れ返ったわよ

 え?命を削って大丈夫かですって
 はは、大丈夫
 聞かなかった?自分じゃ死ねないって
 そうよ、そうなの、あのお馬鹿さんが悲壮な決意をしちゃったから大丈夫
 身を削ってでもってね
 そうよ「自分じゃ」「死ねない」身体なの。

 そんなことぐらいで楽になんかさせるもの…、あれ?
 あははは、こ、これ、そんな目をして睨むでない。

 こほん、それはともかく
 いいの、おいておきなさいってば
 あのねぇ、あの子だって、絵理花さんがすぐに私に電話するって思ってたら
 あんな無茶はしないんだから

 ほら御覧、こんなになるまで相談もしないじゃない
 寂しかったのよぉ、こっちは好意を持ってるのにさ、
 困ったら相談ぐらいには乗れるんだから
 響子も言ってなかったかな「なにかあったら」って
 ね、だから出てきたの

「なるほど、それでテレビで電話だったんですね」
「そ、共通の答えは電気で動くってな物よ」
「それって、すっごい無理っぽい」
「ほんとーにお馬鹿さんなんだから」
「それは、あんまり」
「いいんだって
ね、それよりも、どうしたい?」
「え、どうするって」
「やれやれ、もう一人お馬鹿さんがいるなぁ、あなた、あなたよ絵理花さん
で、どうしたい?」
「はぁ」
「もう、おっしゃいな、どうして欲しいのか?
敵のことを知りたい?
敵から身を守って欲しい?
それとも?」
「それとも?」
「あなたがそうして欲しいなら、そんな奴ひねり潰してあげようか、いまこの場所で?」
「出来るんですかそんなこと?」

食卓の向かいに座る紘子の姿が霞み、その姿が微光を帯びる

「そを我(われ)に望む者がいれば
 我の意に適い、そして我の力を望む者が!
 小さき者よ
そは、そなたにほかならぬ
 そなたが望むのであれば、我が力を振るおうぞ。
 小さき者よ
応え(いらえ)は、いかに?」
「……、何もしないで頂けますか?斎王様」
「ほほ、それを望むか。」
「はい、でもひとつだけお力を」
「何なりと申すがよい」
「ではお言葉に甘えます、お教えくださいどうやって私にあんな嫌な夢、
私の力では防げませんか?せめて抵抗は出来ないんですか?」
「くく、小さき者よそなたは我が力を求めぬか…。
なるほどねぇ、自分で片を付けようって訳?
お姉さんには黙って座ってらっしゃいって事?
折角出てきたって言うのに?」

口調が変わり、光が薄れ、優しげな紘子が戻ってくる

「ご、ごめんなさい、でも響子さんの方が紘子さんのお力がいるんじゃ?」
「いらないって、危険は無いんだから、ただ時間は掛かりそうよ、
それにあのお馬鹿さんから私より絵理花さんを助けてよってもうお願いされちゃってるものね」
「だったら、ここに居て下さい。遊びにきます。
紘子さんがいて下されば、それだけで安心できます
それからさっきの事を教えてくださいお願いします」

「ちっ、折角派手にやれるって思ったんだけどなぁ」
「はぃ?」
「あはは、まあいいわ、ところで絵理花さん私の玩具を使えるようになったみたいね?」
「玩具ですか?」
「まだ、自由に使えちゃいないみたいだけど」
「あ、ナイトミストのことですか?」
「まぁ、そんなに可愛いお名前付けちゃったのね、ふふ、やるじゃない」
「まだ、紘子さんのに比べたら偽者っぽいです」
「いいのよ、やってみようって気があったんでしょ、
なんでも自分でやってみるのか、熱血も復讐も、嫌いじゃないしねそういう子
わかった、手出しはしないし、教えてあげる、それにここにいてあげる」
「やったぁ、ありがとうございます、斎王様」
「もう、ここにいるときは紘子って呼んでよね
でも、御代はいただくからね」
「えーっ、ま、まさか、響子さんみたいなこと言うんじゃ」
「言いたいけど、二番煎じはしゃくだもの、また泣かれちゃ後で響子が怖いしね
ね、明日から世間じゃ連休って言ってなかった?」
「え、はい、4連休になるんです私の学校、あさってだけ新体操の大会がありますけど」
「そうね、だったら、明日の午後からお買い物に付き合いなさい」
「はい、それくらいなら」
「だけじゃ無いわよ、大会とやらにも応援に行くし」
「えーっ」
「そのあとはここにお泊りしにらっしゃい」
「ずっと監視付ってことですか?」
「ボディガードとおっしゃいな、それだけあればいろいろ教えてあげられるでしょ?」
「あ!」
「ね?、ふっふ三日三晩もあるじゃない、楽しみよねぇ絵理花さん?」

悪夢と添い寝をすることと、この人と過ごす事

「どちらが賢い選択かしら?」

絵理花の自問は、なかなか消えてはくれなかった。



 4


「…いやぁ、そんなことない、お嬢さんなら、間違いなく…」

いまどき、こんな見え見えの誘いに乗る人間がいるかしら
紘子と待ち合わせたターミナル
紘子の姿を捜しながら切れ切れに聞こえるスカウトの声

『なんだか聞き覚えが…、やだ、この前しつこく声掛けた奴!』

断っても断ってもあきらめず
最後には無言で立ち去ろうとする絵理花に≪怖い事務所≫とやらの
話まで持ち出してきた馬鹿な奴だった

いっそ始末してやろうか、真剣にそう考えたのだが人前で力を使うわけにも行かず
なんとか振り切った後、もう一度引き返し、雑踏の中でこっそりと
当分の間、足腰が立たなくなるまで精気を吸い上げるだけで許してやったのは
その日の目覚めが良かったのと、響子と待ち合わせしていたからだったが
そんな事は本人は知るまい

身動きできなくなるのを見れば、少しは悪くなった気分も晴れるかと思ったのだが

『不味かったんだ、あいつ!頭の悪いのって、どーしてあんなに美味しくないの』

その後、青い顔をしている絵理花の様子を怪訝に思った響子は、
その話を聞き出すと可笑しそうに笑っていたが
「お口直しにね」そういって少し分けてくれながら
「拾い食いはいけないって言われなかった?」
片眉を上げてそう付け加えるのは忘れなかった。

『目障りだし、この際始末しようかな、それにしても引っかかってる人も人!
 さっきからずっと話し込んで…、えっ』

「まぁ、わたくしなどに、務まりますの?」
「勿論、もちろん、勿論です」
「まぁ、うれしい、わたくし、田舎に居りますとね、お話する方も少なくて…」

両頬に手を添えてわざとらしいほど恥ずかしげな素振りをしている女性は

『…紘子さん…』

響子だったら声を掛けられるような度胸のあるスカウトはそうそういまいが

『紘子さんてば、とっつき易そう、中身は万倍危ない癖に
 あんな危険人物、うろうろしないで欲しいけど…
 どうしよう、携帯で呼び出そうかな、あの番号は携帯のじゃないけど紘子さんなら
 そんな事関係ないかな』

戸惑う絵理花に

「あーっ、こちらよこちら、ね、この方が私をねぇ、なんだか『でびゅう』させて
 下さるんですって!」

名前を呼ばれなかっただけマシだが人通りのある中でぶんぶん手を振るのはよしにして欲しい

「お連れの方ですか、おーっそちらも可愛らしいお嬢さん、ん?」

どうやら絵理花の顔を覚えていたらしい
もうこうなったら仕方が無い
つかつかと紘子の傍に近寄ると紘子の手をわしっと握り、問答無用で引っ張り出す

「まぁ、そんなに急に動いたら、今日のこの姿だと、急なのは駄目で…」

ともかくダッシュでその場を離れようとするのだが
紘子をよほどの獲物とでも思ったのかスカウトもここを先途とばかりに追いすがってくる
そのうちに、あっちだ、こっちだの声まで増える

『事務所って奴かな、もういい加減にしてよぉ』

散々走り回った挙句ようやく逃げ込んだ細い路地
紘子と一緒でなければなんとしてでも逃げられる、紘子を先に逃がそうか…
そこまで考えて紘子に意識を戻し始めると
先程まで後ろ手に感じていた紘子の重さがひどく軽い気がする

『……』

響子の言う≪ハンター≫になってから、危険はともかく≪怖い≫と感じることは無くなっていたが
今回だけは≪怖い≫気持ちが先に立つ。
紘子の手の感触を確認しながら

『み、見たくない気がす、る…!』

確かに手があった。手は。確かに手はあるが、その先が

『てっ、てっ、手、てぇーっ』

握り締めた手の手首から先はあっさり付いていなかった。


空いた手でがっしり口を塞いでも糸より細い悲鳴が漏れる

『どう、どう、どうして、引きちぎっちゃったの、私?』

手から目が離せない、吸い寄せられるように見つめていたその手の先が少し滲むように見えて
じわり、じわり、じわ、じわ、じわじわ。
手から先が生え出した。

『ひぃっ』思わず振りほどこうとするその手を
今度は手のほうからしっかり握り締めてくる
絶叫しかかるその耳に

「落ち着きなさいって、もう。もうちょっとお待ちなさい、嫌ねぇ、回線が遅いと困っちゃう」
「紘子さん、紘子さんよね、だ、だいじょ、てっ、てっ、てが」

情けないほど呂律が廻ってくれない

やがて輪郭が現れ、二の腕、肩、胴体と足、反対の手それらがさぁっと現れたが
肩の上が乗っていない

「ホントに遅い回線よねぇ、乗り換えようかしら」

意味不明なことを首なしの紘子が喋っている

『フィーメルで良かったぁ、絵理花のままで生きてたら今ごろおかしくなってる、私』
「もう、だから言ったでしょ、急に引っ張っちゃ駄目よって」

ようやく、身体の上に透明な顔の輪郭が現れて、首だけ透明なマネキンといった風情の
紘子がぼやく。

「大変なんですからね、食べたり人と触ったり、絵理花さんといい事したり出来る『身体』を
 この世に、『落とす』のは」
「???」
「響子の部屋とか、紘宮社なら大丈夫なんだけど、あーもう」

やっと顔に色が差し、一瞬、色を塗った絵のような紘子の顔が見えたが
次の瞬間、生きた人間の姿がそこに現れた。

「電車とかなら、行き先も決まってるからいいんだけど、さっきみたいに振り回されるとね
焦点が絵理花さんが握ってる手にしか結べなくなっちゃって全部を落とせなくなるのよ」
「?」
「いいのよ、回線乗り換えるわよ、絵理花さんとも遊びたいしね」
「なんだか良くわからないけど、無事なんですよね?」
「大丈夫、これでも生まれたときから神様なんだから、それにこの身体が本体ってわけでも無いし」
「え、そうなの?」
「あたりまえでしょ、人の身体はわたしを入れるには小さすぎるの」
「やっぱり10mとかいるんですか?」
「え?ああ身長ね、違う、違う、そういうのじゃ駄目なのよ、山とか、河とか、海とか、星とかね
 そういう入れ物でなきゃ入りきれないの」

頭の中がくらくらしてくる、あらためてこの人好きしそうな存在が何なのか
さっきの馬鹿に教えてやりたくなってきた。

「そうだ、紘子さんさっきのは、たちの悪い奴なんですよ
 紘子さんを騙してエッチなビデオとかに出すかもしれないし」
「あら、それが『でびゅう』なの?、でも最近ならDVDに限るわね、画質も綺麗だし」

話がとことん噛み合ってくれない

「私、頭痛してきた」
「大丈夫なの?風邪でも引いた?」

放って置いて紘子の出ているエッチなビデオだかDVDだかを響子と鑑賞する方が
良かったかしら

追いすがってきたスカウトたちを紘子が文字通り固まらせて身動き出来なくするのを見ながら
紘子のビデオの中身を思わず想像してしまい
赤面している絵理花の手を引いて
紘子は表通りに向かって歩き出した。

表通りに出るときに、さすがに恥ずかしく、紘子に手を離してもらったのだが
「いいわよ、握ってもらうほうが好きだもの」そう言った紘子の表情が少し気にかかった。

まず紘子が入ったのは百貨店

『そういえば紘子さんってどんな服が好きなのかしら?
 初めて会ったときの洋服のほうは響子が送ったって言ってたし
 昨日のは、響子のクロゼットから失敬してきたって言ってたよね
 おかげで、まんまと騙されちゃったけど
 きっと大人の服だよね、紘子さんてばスタイルいいもの
 お姉さんなのに響子より少し背が低いけど』

そこまで考えて紘子には、身長やスタイルどころか
そもそも、顔かたちすら無意味だと気付いた絵理花は微苦笑を洩らす。

どのブランドを選ぶかのなと
紘子について行くが、ブランドショップが並ぶ一角を紘子はあっさりパスする
やがてとあるショップのウインドウに張り付くと

「うーん、これよこれ、響子ってばいくら言ってもこういうのを送って寄越さないんだから」

それはそうだろう、
『響子は絶対に、ここには来ないわよ、間違いない』
紘子が熱い視線を注ぐその衣装には嫌という程レースとフリルがついていた

衣装を選んでいる自分と同年代の娘が何人か絵理花にちらり、ちらりと視線を投げてくる
彼女たちには少し大人しめの衣装を身に着けた絵理花が気に入らないらしい
間違いなく自分は浮いている
日頃、他人の視線をあまり気にしない絵理花だが
こういう場所ではやはり落ち着かない
やがて衣装を身に着けるのが絵理花でなく、連れの年長者だとわかると
今度は、彼女たちの視線にわずかな嘲りが混じる

しかし、彼女たちの視線など最初からまったく眼中にない紘子が試着室から出てくると
彼女たちどころかショップ内の人間すべてが紘子の姿に吸付けられてしまった。

『うそ、何よそれって』

似合うのだ、激しく似合う
少しあどけない紘子の表情に恐ろしいほど似合っている
薄いデニム地でできた衣装には
スカートだけにでも3段の切り返しとそれぞれについたレースの飾り
裾にはしっかりフリルまでついている
しかも裾をふっくらと膨らませて、裾から覗いているのはこれもレースの入ったペチコート状の代物。

「どう、こういうのが着てみたかったの、あなたも試着する?」
『これで麦藁帽でも持ってたら、赤毛のアンのお友達って言っても通っちゃう』

思わず紘子の姿に見とれながらもかろうじて首を横に振るのは忘れずにすんだ

「残念ねぇ、お揃いもいいかなって思ったんだけど」

一度でも身に着けたらフィーメルになったとき、フリルがつきそうで嫌だと思ったのは秘密だが
ともかくかろうじてお揃いにはされずにすんだ。

似たタイプの服と小物を数点選ぶのに時間を掛けてくれなかったのは助かったが、
今度は一転、素敵素敵と群がってきた先ほどの少女たちと紘子が話し込むのにはげっそりした

「え、えっとほら、ほかにも見たいお店があるって言ってたよね」

そう言ってようやく引っ張り出した紘子に少女たちが後ろから注ぐ視線がいつまでも熱かった。

だが、絵理花の不幸はそれでお終いになってはくれない
先ほどの衣装を身に着けたままで表通りを闊歩する紘子、似合っているだけにやたらと目立つ

『逃げちゃ…だめ…よね』

数歩後ろから歩こうかと考えたが、遅れて声を掛けられるほうがもっと目立つと気付いて
仕方なく紘子の横に従うことにした。

絵理花の苦悩をよそに紘子はずんずん目的の場所を目指しているようだ
表通りを外れて雑居ビルが立ち並ぶ一角

「ここよここ、ここの3階なの」
「紘子さん、この街何度も来てるんですか?」
「いいえ、初めてだけど、どうかして?」
「だってこんなややこしいところ、一度も迷わずに来たでしょ?」
「ああ、大丈夫よ、場所はnetで調べたし、案内はGPSがしてくれるもの」
「え、紘子さん携帯持ってるんですか?
だったら、そっちの番号も教えてください、あれって紘宮社の番号でしょ?」
「え、持ってないわよ、そんな不便なもの、かけて御覧なさいな、
 今だってちゃんとわたしが出るわよ」
「??、い、今でも紘子さんが出るの?」
「当たり前でしょ?私の番号にかけてほかの人が出たらおかしいじゃない」
「???、そ、それはいいけど、じゃあGPSって?」
「ん?ああ、衛星から直接聞いてるの」
『聞くんじゃなかった』
「今は便利な時代よね、ね、そう思うでしょ?」
『紘子さんに、不自由な時代ってあるのかしら』

内心の呟きはともかくも、口数の減った絵理花を伴って紘子が入ったビルの3階
フロア自体が異様な雰囲気に満たされている
出入りするのは先ほどの少女くらいからもう少し年長の者まで
ただし圧倒的に男性が多い。

「ひ、紘子さん、こ、ここって!」
「来た事がないの?『コスプレショップ』?」
「や、やっぱりぃ」

絵理花の絶望を店の異様な熱気がおしつぶした。


 5


 それぞれ無言のままで、熱のこもった視線を奇怪な衣装に注ぐもの
店員を捕まえて意味不明な会話を交わすもの。
あるいは、絵理花と同世代の少女が陳列品と無言の対話を交わしていたり
さらにその少女に離れた位置から遠慮がちな、しかし熱い視線を注ぐ者がいたりもする。

そこにいる全ての存在に共通する物は『熱さ』、秘められていようが顕わであろうが
ひたすらに、全ての存在が『熱かった』

しかし、そんな熱気すら瞬時に冷却してしまう者もいる

「店長さんはお見えかしら?ご連絡していた『roko』と申しますが」
「…あ、ああ、そちらが!想像した通りってか、いや想像イジョーってか
あはっ、すっ、すっげーや。
店長、楽しみだって俺にも言ってたんすよ、ちょ、ちょっと待ってください。て、テンチョー!」

『連絡なんて入れてたんだ、それもコスプレショップの店長さんの方が楽しみに待ってたですって?』

先程からの店内の熱気に、いや無節操に洩らされる『精気』に少々辟易しながら絵理花がつぶやく。
もっと『熱い』のが出るんじゃと内心恐れていた絵理花だが
奥から現れたのは意外にも上品な中年紳士、派手さは無いが仕立てのいいスーツを纏ったその紳士は、
しかし、背後に二人の年若いメイドを伴っていた。

「どうも、店員が騒ぎまして申し訳ありません。
『roko』様でいらっしゃいますな、お待ち申し上げておりました。」
「店長」氏が右腕を胸に当てて時代がかった一礼を寄越す。
「いつもご丁寧なメールを頂戴しまして」

軽く応える紘子は特別なポーズこそとらないが声音、表情、優雅そのものである。

「いえいえ、『roko』様の慧抜なご意見、読ませて頂くのが毎回愉しみでして
 それにいつぞやは水茎も鮮やかな直筆のお手紙まで頂戴いたしまして」
「お恥ずかしい、悪筆です」
「ご謙遜を、香を焚き染めた巻紙のお手紙、切手もお貼りになっておられないのに
 どうして届けていただいたのか、一同不思議に存じておりましたが
 先程の若い者まで欲しがるやら、せめてコピーをなどと申すやらで…」
「お戯れを。ところで如何かしら、お願い申し上げておりました件ですが」
「勿論ですとも、で、そちらのお嬢様が…」

『え?』

「ええ、如何でしょうか」
「完璧、と申し上げましょう、映えます、間違いございません。
 何より、『roko』様、そしてお連れ様のお顔立ちを拝見しまして、あ、これは失言を」

『完璧?映える?』

「では、二人でお願いしますね」
「承りました、望くん、遥くん」店長氏は背後に従えたメイドだか店員だかに声をかける

『二人ぃ、二人って?!』

「さ、行きましょう」

嫌も応もなかった、先導するのぞみ、はるかと呼ばれた二人のメイドの後に従う紘子、
さらにその後を絵理花が引きずられていく

『え、あ。紘子さん?紘子さんてば一体何が、あの、どうなって』

呆然としている間に、二人のメイドが絵理花達の衣装を丁寧に、しかし機能的に除去していく。
別室のかなり大きくはあるが試着室らしい部屋、
毛足の長い絨緞が敷かれ、大きな装飾つきの姿見、ビロード張りの椅子が置かれている
またそこここにある数体のマネキンにはドレス、皮鎧、そして
金属的な光沢のある機械めいた鎧のような物などが纏わされている。
しかし、いずれにも共通して、先程の店舗に陳列されていた物より数段手が掛かっている事は
こういうものとは無縁の絵理花にもわかる。

「うふふ、ここにね、非売品のドレスがあるのよ」
「非売品の、ドレス?」
「そうなの、でね、いろいろお話していて私に着せてくださるって。
 だったら、二人でってね、そういうお話になったのよ。うん」
「うんって、あのそれで私もドレスを着るの?」

紘子はすでに異様に腰の引締ったコルセットを身に付けている

「わたしそんな怖い下着はいやよ!」
「大丈夫よ」紘子が嫣然と微笑む。
「え?」
「あなたのはね、そちら」

紘子の視線の先にはメイド服。
いやメイド服には違いがないし、今、着替えというよりも
整備作業を展開している二人のものよりもはるかに上質、優雅ではあるが…

「め、メイドぉ、紘子さんがドレスで私がメイドぉ?」
「あら、じゃぁこれをつける?」

紘子がにこりとコルセットを指差す
絵理花の手首とまでは言わないが首ほどの太さではないかと思うくらい紘子のウエストは
砂時計のように変形している

『こ、怖い、怖いよ。世の中にこんなに≪怖い物≫がまだまだあるなんて』

「どうするの?」
「メイドでいいです」『なんだか、どこかで、大きなことを忘れてる気が…』
「よく聞こえないけど?」
「メイドさんにしてください」
「望さん、遥さんでしたか?お聞きのとおりよ、よろしくて?」
「…」「…」

二人は無言で、しかし紘子ににこりと微笑を返すと絵理花には抑制された無表情のままで
機能的な作業を続け、瞬く間に優雅なお嬢様とお供のメイドが出来上がってしまった。
望が紘子に羽飾りのついた鍔広の帽子をかぶせ、仕上げとばかりにレースの白手袋を渡す。
望は紘子の姿を満足げに、そして憧れの表情で見つめている。
そしてすっかりメイドさんに変身した絵理花には遥の手からやはりレースのついた日傘が渡された。

「私がこれを差すんですか?」
「…日傘を差すメイドが居りますか?後ろに控えて、お嬢様に差しかけるものです…」
飽く迄も事務的に遥が答える。

『お嬢様、お嬢様って…?やっぱり…』

「参りましょうか?」紘子がにこりと微笑みかける。
「…はい…お嬢様…」

諦観が絵理花に残された感情だった。

「あ、あの、ひ、いえあの『roko』さん、どこに行くんですか?」
「『roko』さん?」
「う、ぅ、お嬢様、どちらにいかれのでしょうか?」『ひとでなしぃ』
「ええ、記念のお写真を撮ってくださるのよ」
「えーっ、いや、嫌、いやです、そんな恥ずかしい事」
「まぁ、メイドだからって遠慮は無用よ」
「違いますっ、顔出して写真なんて絶対に嫌です、そんな事するなら帰りますっ!」
「まぁ、慎み深いのね」
「怒りますよ」
「仕方ないのねぇ、じゃ、あなただって誰にも判らなければ、一緒でいいかしら?」
「そ、それは」
「いいのね、じゃ任せて頂戴」

紘子は自分の荷物の中から化粧ポーチを取り出すと絵理花になにやら化粧を始める
抵抗しかけた絵理花だが先程までのやり取りで、抵抗するだけ無駄と悟っていたので
ともかく化粧が終わってから文句をいうことに決めた。

その様子を二人のメイドは少々冷笑めいた微笑を浮かべて眺めている
折角の「お嬢様」のお供を無駄にする、はしたない娘とでも思っているようだ。

「さ、これでいいわね、ほら鏡を見て御覧なさい」
「………」

信じられなかった、姿身の中から自分を見つめ返しているのは
意思的なきりりとした表情のメイド姿の若い娘

紘子が直線的に修正した眉と、わずかな頬骨の強調、さらにかすかな目下のシャドウが
これほど自分を変えるのだろうか

「ね?『メイド長』、これであなたらしくなったでしょ?」
「ありがとうございます、お嬢様、お手数をお掛けいたしまして申し訳ございません。」

『メイド長』などと呼ばれたせいか、それとも紘子のお化粧の効果なのか
及び腰だった絵理花の背筋がぴんと伸び、さらりとそんな言葉が漏れる。

二人のメイドも絵理花の変貌に呆然としているようだ
先程の冷笑的な態度との落差がおかしくて、つい絵理花にも悪戯心が動く

「望さん、遥さん、ぼんやりしていてよろしいの、お写真の準備は出来ていて?」

「…!」
「…?」

二人のメイドが唖然として目を合わせる
ついで、年下の絵理花に高飛車に出られた事に気付き反発の視線を返そうとするが
もうこうなったら貫禄が違う
同じ土俵に上がってしまえば、くぐった修羅場の数と質が違うのだ

「いかが?」
「し、失礼致しました、メイド長」
「た、只今、確認してまいります」

あわてて飛び出していく二人を見送って思わず絵理花が笑い声を立てる

「こほん」
「し、失礼致しました、お嬢様…ん、ひ、紘子さん、なにさせるんですか?」
「その気になっちゃう物でしょ。姿かたちをちょっと変えるだけなのにね」
「え?」
「絵理花さんとハンターさんの違いよ、ふふっ」
「……」
「根元は、いいえ、どちらもあなたという事ね」

考え込む絵理花
そして望と遥が二人を迎えに現れた。

その後写真を撮ってもらい、すっかりメイド長の威厳に服してしまった望、遥に懇願されて
メイド3人組の集合写真も撮った後
店舗に出てみた二人は店内の注目どころではすまなかった
紘子の写真を撮りたがる客たちを望と遥を指揮して整理する絵理花

さらに、その絵理花の姿を撮ろうとする者まで現れたのにはさすがの絵理花も苦笑してしまったが
今度は望と遥がメイド長をかばう始末だった。

絵理花は化粧と服も元の姿に、戻してもらい、紘子も待ち合わせの時の服装に戻ったのだが
写真撮影の時から感激していた店長と
紘子が深遠な変身談義を始めると
さすがに絵理花は取り残されて
店舗に置かれた椅子に腰掛けて二人の対話を観るともなしに眺めていた。

『今日はもう紘子さんに振り回されっぱなし』

頭の中を待ち合わせの後からの出来事が走り回っている気がする
表面上は穏やかに、しかし店長氏と濃密な論議を戦わせる紘子

『あーあ、この人と私、昨日の夜…』

切れ切れに絵理花の中を想いが過ぎていく

『どうなんだろ、紘子さんとって言ったら響子は怒るかな、嫉妬する?』
『……どっちも…しないよね、わかってるけど…。』

二人はまだ話し込んでいるようだ

『私が求める分は響子はいくらでもくれるけど、響子は私のものじゃない』
『わかってる、わかってるけど』
『私のものにならないのなら、いっそ、いっそのこと響子を…。』
『響子を、私が?響子をどうするつもりなの、私ったら!』

愕然とする絵理花の手の甲に、ぞわりと走るものがあった…
思わず見つめる中指の付け根に、ぽつりと毛先が現れて
ぽつり、ぽつり、ぽつ、ぽつ、ぽつフィーメルの体毛が現れだした

『こ、こんなこと、勝手に変身が始まるなんて』
『と、止まれ、止まれ!私は絵理花でフィーメルじゃ』
『な、何いってるのよ、わたしはフィーメルで、絵理花は仮の姿で…、と、止まらない。』

思わずフィーメルの意志の力で変身を押さえ込もうとする絵理花
そのとき変身を始めた絵理花の手にそっと白い手が重なった

「疲れちゃったのね、さ、もういきましょうか」

思わず紘子の顔を見上げる
そして見返した自分の手には長い毛など一本も残っていなかった。



 6


 紘子が重ねた掌が過ぎた後
そこには確かに毛の一本も残っていない、と見える
見えるのだが、絵理花の違和感が消えてはくれない

「しばらく我慢をなさいね、いいこと、押さえつけてはだめよ。」

そう言い置いて、紘子は店長氏に辞去の言葉を伝えにいった。

「これは、お引止めを致しまして、如何でしょうか、こちらの車でお送り申し上げますが」
「ご配慮ありがとうございます、では**ホテルまでお願いできますか?」

店長氏や望、遥、そして例の店員などに見送られて、店外まで出ると
なんとそこには一台のリムジンが、彼女たちを待っていた
いつもであれば、店長氏の素性などに気がいくのだろうが
今の絵理花はそんな状態ではなかった

「メイド長、お嬢様とまた是非お見えになって下さいね」
「メイド長のご采配をお待ちしておりますね」

声を掛けてきた望と遥にかろうじて笑顔を返すのが、もう限界だった
後部座席でひたすらに耐える、耐える
紘子がどのような手を用いているのかは知らないが外見こそ擬態が解けてはいないのだが
自分では、もう腕の半ばがフィーメルの腕に戻っているのが判っている
紘子がいなければ、あの店内で、変貌を遂げていたのかと思うと
その恐怖が絵理花を、いやフィーメルを鷲掴みにする

紘子が彼女を伴ったのは先ほどのターミナルから程近い高級ホテル
それも紘子は最上階のスゥイートを予約していたようだった
ボーイたちが引き上げてしまい
絵理花を奥まった寝室にいざなうと

「よく我慢したわね、いいわよ、何が起こってもここなら誰にも見えないし、聞こえないわよ」

そう言って絵理花の腕に再び掌を走らせる
自分で感じていた通り、そこにはフィーメルの腕が現れた

初めてフィーメルになったときから
フィーメルと絵理花との変身は驚くほどにスムースに出来た
まるでそれが当然だとでも言うように
もし、絵理花の姿を失っていたらどうなっていたのだろうか
フィーメルとして生きていく事、それは決して嫌ではない
だがその代わりに無くす物、その心の準備がすぐ出来ただろうか
絵理花を失うという事はフィーメルスパイダーとしての
心の成長も止めてしまう気がする

異形の獣として生きることはもう自分の定めに違いないが
知性を無くしたけだものにはなりたくなかった
いま少し、時間が欲しい
少なくとも一人で生き抜く知恵と力を得るまでは

そのときこそ響子との誓いを果たせる資格を得た時になる
密かにそう思いつめてきた
そのときすぐに響子を狩るのか
それはまだ判らない
だが、少なくとも誓いを果たせる自分には早くなっていたい
響子に甘えるだけではなく
響子と向かい合ってみたい
それが密かな願いだった

「予告なくあなたを狩る事を誓います」

二人の神聖な誓いは果たされなければならない
たとえそれが自分が資格を得たと思えるその日であっても
その日の数十年後であっても
響子を狩れる自分と響子の間に何が生まれるのか消えるのか
それを見極めたい
それを誰にも邪魔させはしない…

普段なら水を泳ぐように、あるいは自転車に乗るように
なんでもない変身が今日はひどい苦痛を伴った
変身しかかる絵理花の額に汗が滲む
体毛が手足を覆い、着衣が胴部を覆う長い毛足に吸収されそして額に第三の目が開く
変身が完了したが
違和感は、やはり自分を掴んだままでいる

先程から変身を中断させていたせいか
それとも意志によらない変身に動転してしまったせいなのか
そして困惑しきったフィーメルが目を上げるとそこには

「どうしたの、ハンターさん?らしくないわよ困った顔は」

響子が目の前に立っていた

何故、いやそんな筈はと、問い掛けようとしたその瞬間
突然凶暴な衝動がフィーメルを握り締めた
それを知ってか知らずにか響子がフィーメルに近寄ってくる

『だめ、駄目よ、危ないから、寄らないで』

思いは言葉になってはくれず代わりに獣じみた唸り声が口から洩れる
それを気にも留めずに響子がフィーメルを抱きしめて
フィーメルの肩に顔を伏せる

先程の衝動がフィーメルを突き動かし
響子の背中にそのまま爪を、誓いの爪を突き立てようとさせる

『違う、違う、絶対に違うこんなものに引きずられて響子を殺しはしない』

だが、獣の唸りは止まらず
爪と響子の背中の距離があと2センチ、1センチ、と迫る
そして今しも爪が響子の背に触れようとした時
フィーメルの口から咆哮が
掛けられた鎖、絡め捕られた罠を引きちぎろうとする自由な獣の咆哮が
フィーメルの口からほとばしった

『私はフィーメル、フィーメルスパイダー、投げられた餌などいらない、私の獲物は自分で捜す!』

ぴたりと爪が止まる、そしてあの凶暴な衝動がやっと自分を解放したことに
フィーメルは気が付いた

心臓の鼓動が聞こえる、駆け回る血液の脈動までが聞こえる
自分の内部に潜んでいた見えない敵との格闘に
精気を根こそぎ持っていかれたことに気付いてフィーメルの腰が砕けそうになる

「はいはいお疲れ様、すごいじゃないのちゃんと制御できたじゃない?」

声の違いに驚くと肩から揚げられたその顔は紘子の顔になっていた

「紘子さん」

やっと人の声をだしながら座り込んでしまいそうになるフィーメルを
紘子は軽々と抱き上げると広い寝台に横たえた

「持っていかれちゃったのね、せっかく昨日あげたのに」
「あ、あは、そうみたい」
「はらぺこさん、上げようか?」
「駄目です」
「あら、お馬鹿さんに操を立てるって言うの?」
「違います」
「このまま、ここで飢え死にする気?」
「いいえ」
「ならどうするつもりなの?」
「もらうんじゃなくって、欲しいです、紘子さんのが欲しい」
「あら!」
「目の前にある素敵な獲物を、今、ハントしたい、私の糧にするために」
「ほほう、獲物に食い殺されるかもしれなくっても?」
「できなきゃ、このまま死ぬのもいいかしら」
「いいわよ、仕方ないからハントされてあげる、素敵って言ってくれたしね」

紘子の目に淫蕩な光が宿る
こんなに怖い目をしていたのかな、そう思う
響子もこんな眼をする事がある、あるにはあるが怖さが違う

「うふふ、気をつけなさいよ、狩られてあげるだけってのは趣味じゃないの
 私もあなたを食べるんだからね」
「手強い獲物!」
「ひとつだけ言っておいて上げるわね必要以上に食べようとすると…」
「どうなるの?」
「壊れちゃうわよ、あなたは小さ過ぎるもの、こっちに落としてあるこの身体の分でもね」
「爆弾を、ハントしちゃったか」
「太陽をハントしたのかもね、灼かれないように気をつけなさいね、蜘蛛の姫君」

かろうじて身体を起こし紘子の上に覆いかぶさることはできた
できたが、そこまでが限界だった
それを察してにこりと微笑した紘子の顔の怖かった事といったら
思えば本当に今日は怖いことばかり
自分はまだまだ子供だな、微苦笑を宿すフィーメルの額
人外の力と人の知性を宿す異形の瞳
フィーメルのサードアイに下側から紘子がそっと口付けをする

「…!」

声にならない叫びが洩れてフィーメルは自分がひどく欲情していることに気がついた

「ハントされてあげるわね蜘蛛の姫君、だからおいしく食べてよね」

二人の重なりがどうしたものかするりと入れ替わる
普段優しい姉の顔をしているこの人が、あどけない表情をするこの人が
いったいどんな存在なのか、知らなかったのは自分の方だと
気づいた時にはフィーメルの体中に紘子の身体が絡み付いてきて
するりと過ぎてはわだかまり、わだかまってはするりと過ぎて
いつしかフィーメルは耳の奥でか細く尾を引く自分の声を聴いていた

そしてまた昨夜のように唐突に、フィーメルの身体から彼女の一部が吸い出され
換わりに紘子の魂、熱く昏く、小さく巨大な神の一部が彼女の中に入り込んできた
何が起こるのか今度は少しわかっていたので、水の中で眼を開けるように
今度は薄目をあけて見ることができた

紘子の中は煌煌と眩しく、またどこまでも広々と昏くフィーメルは迷ってしまいそうになったが
ふと気が付くと紘子が自分を包んでいてくれることが判って
ようやくフィーメルは紘子の中でくつろぐことが出来た
こんなに小さい私が紘子を、いやこの巨大な存在を自分の中で紘子がしてくれているように
喜ばせることができるのかしら
ふとそう思ったが昨日と同じく紘子の切なさが伝わってきて
フィーメルは安んじてこの不思議な交流に魂をゆだねた。

そのあとフィーメルがこちらに戻ってくると驚いたことに
彼女は絵理花の姿になっていた

「ごめんなさいね、勝手にやってしまって、でもほら、絵理花さんだって」

言われるまでもなかった
先程の交流で精気はすっかり満たされていたけれど
満たされていない欲張りな自分がやはりいて
絵理花も、いや絵理花の姿をしたフィーメルももう一度紘子との交流を愉しんだ。

そして紘子をしっかり抱きしめた絵理花の耳に

「サーチ完了、異常なプログラムの除去が完了しました」

悪戯っぽい紘子の囁きが忍び込んだ。

「ええっ?紘子さんってばそんなこと考えて私と?」
「そう思う?」
「うぅ」
「それほど私は親切でもないし、絵理花さんを物としか見ないほど思い上がってもいないわよ」
「??」
「私がしたかったからに決まってるでしょ、好きだもの私だってさ」
「紘子さん」
「とは言え、機会を逃さない主義なのよ」
「機会って」
「だってね、油断してるとあなたたちってすぐに消えてなくなるじゃない」
「え!」
「ちょっと考え事してるともう年取って死んでたりね」

『わたし、やっぱり、とんでもない人と、とんでもない事を…』

「ふふ、だからね昨日絵理花さんが間違えちゃった時」
「は、はい」
「ふふざっとサーチをさせてもらったの」

「はぁ」『この人に掛かれば自分なんか単純なプログラムの固まりなのかしら』

「違うわよ、単純じゃないし、私でも予想が付かないからあなたたちが好きなんじゃないさ」
「き、聞こえるんですか?」
「聞く気になればね、で、その時に判ったのよ」
「何がです?」
「悪夢とやらの原因ね」
「あ、教えてください、昨日もなんだかはぐらかされちゃったし」
「本当に酷いわね」
「え、私いけないこと言いました?」
「違うわよ、あなたにちょっかい出した奴よ」
「ちょっかいですか」
「そ、何時、どうやったのかは知らない、でも大きな穴が開いてるわよ」
「はい?」
「その穴を見つけたんでしょうね、今やそいつに掛かれば絵理花さんの中は出入り自由」
「えっ」
「荒らし放題ってことなのね」
「き、気持ち悪い、あ、あのその穴はふさいで貰えたんですか?」
「いいえ、ぜんぜん」
「えーっ」
「どう言ったかな?手出し無用って仰ってなかったかしら」
「うぅぅ、そうでした。」
「あはは、でも教えてあげるわよどんな穴なのか」
「お、お願いします」

 いいこと、穴というよりも、それは絵理花さん、いいえフィーメルさんの傷ね
 あなたがフィーメルになったきっかけ
 そうよ、それがいまだに残ってる
 整理をつけたようでもそうじゃない
 響子にも見えたんじゃないかしら、あなたのどこかがぽっきり折れてるってね
 え、そんな事いわれたって?
 でしょ、あんなお馬鹿さんにだって見えるくらいなんだから
 ちょっと敏感な奴になら、ちょっかいかけるほど力のある奴になら
 格好の目標ってわけよね
 はっきり言ってあげるけどあなたとフィーメル、フィーメルとあなたの接合部ね
 本当は一緒の二人、いいえ一人なのに
 フィーメルはあなたに、あなたはフィーメルに頼ってる
 まあそういう言い方をすると余計に一人って意識できなくなっちゃうかしら?
 でも、お馬鹿さんと知り合って少しは安定してたんでしょ?
 お馬鹿さんといれば安定してる
 となればね…
 
 わかって来たかな
 そうね、お馬鹿さんには察しがついたらしいわよ
 だから、あっちで動かずに頑張ってるんじゃないかしら?
 少しでも自分に注意を惹き付けようとかってね
 健気じゃない、お馬鹿さんの癖にさ

 はいはい、悪夢の方ね、あれは敵さんの仕業じゃないわよ
 そいつが仕掛けた罠にね、あなたが抵抗してるのよ
 でも、きっとそれさえ利用されてたわよね
 プレッシャー掛けるにはもってこいの状態になってくれる訳だしね
 判ったでしょ
 物凄いプレッシャーとか掛かったあとであなたに何が起こったか?
 人前で変身の解除、そして…

「じゃぁじゃぁそれで今日は私に色々あんなこと?」
「砂の中の小石を見つけようと思ったら、水をぶっ掛けてみるのが早いじゃない?」
「それは判りますけど…」
「あら、なあに?」
「水を掛けてる紘子さん、とっても楽しそうでした」
「当然じゃなくって?」
「はぁ?」
「言ったでしょ、機会は逃さない主義だって」
「うぅぅ」
「あはははは、さてこのあとはご自分で考えて下さいませね、姫君様
 敵さんの狙いがなんなのか、どう対処するのかってね」

考えろ、考えろ、考えろ!

もし、『敵』の張った罠が成功していたなら
そうなった自分がどんな存在に成り下がるのか
そうなった自分をどうするつもりなのか
そして響子を引っ張り出してまで
罠を張っているのなら
いったい何時決定的なことを起こさせるつもりなのかしら
そしてそのあと
罠を仕掛けた猟師なら罠に掛かる獣を確認に…

何時までも追われてばかりでいられるものか
向こうの手の内がわかったのなら
今度は逆襲してやるまでだ
ただ逆襲はできると思う、思うがしかしそれをするために
自分の今を危険に曝しては、ましてや無くす事にでもなったなら
まったくそいつの思う壺
ならばどうする?

考えろ、考えろ!

いま自分の手にはどんな手札がそろっている?
何か切り札はあるか?

あった切り札が!
飛び切り凶悪な切り札をいま自分は握っている
いや、切り札さんがこっちを見ているではないか

問題は、切り札さんに昨夜、手出しは無用といってしまっていることだ
だが、しかし
切り札さんが何か言っていなかったか
言っていた
はっきり言っていた
『ちっ、折角…』

考えろ!

絵理花の中で、ひとつの思いつきが形になり始めた

「えへへへ、紘子さぁん、えへへ」
「気持ち悪いわよその笑い方、ふうん何か考えついたかしら?」
「はぁい」
「ちょっと、怖いわよ、言って御覧なさいな」
「あのねぇ、うふっふふふふ」
「似合わないわよ、もう、早くおっしゃい」
「はい、紘子さん、お力をお借りしたいんです」
「ふうん、恥も外聞もってやつ?そんなにころころ態度を変えるなんてさ」
「はい、そうかもしれません。でも、えへへへ、見返りもありますよぉ」
「ちょっと、もうなによ」
「お耳を拝借」
「えー、面倒ねぇ、『聞いても』判るのに」

絵理花は何事かを紘子の耳に囁いた

なんと絵理花は『神様』を驚かせる事に成功した様だった
紘子の眼が丸く見開かれる

「本気なの?」
「はい」
「手伝わせてくれるのね?」
「もちろんです。私だけなら刺し違えるところまでは持って行けると思うんです
 でも、折角逆襲するんなら、こっちが無傷でないと面白くありません
 それに、あちらの懸けた罠を思い切り馬鹿にしてやらなくっちゃ」
「うっふふ、もちろんよぉ」
「では、お力をお貸し頂けますか、紘子さん」

今度は紘子がにやりと微笑する番だった

「ふふ、それは紘子にじゃなくって、『斎王』の方に言って御覧なさいな、それも
 蜘蛛姫様がお命じになればよろしいの、神に命じる度胸があればね」

どうやらここは一番覚悟を決めるべきだった。

寝台から降りて絵理花は左手を額にかざす
変身が終わると
そこには活力に満ちた若い獣が立っていた
そして同じく寝台から優雅に身を滑らせた紘子の姿は微光を帯びて
丈成す黒髪がまとった重ねの衣装の上につややかに流れ落ち
斎王が、その気になればこの都市のひとつぐらいは意のままに踏みにじる力を具えた神の姿が
フィーメルに向かい合って立った

絵理花、いやフィーメルは右手の爪、誓いの爪、そしてこの人に祝福された爪を伸ばすと
右腕を自分の顔の前にかざし

「それでは斎王様、フィーメルスパイダーは
 この爪にそなたが下された祝福の名において、そなたに助力を命じます」
「御下命のままに、わが力を振るいましょうぞ」

フィーメルはにこりと笑い誓いの爪を斜めに掲げる

「それでは、斎王様、派手にやりましょう」
「ほほ、愉しみだこと」
「ぶっとばしましょ”now it's a show time ! ”」
「”oh yha!”」

斎王がどこからか差し出した扇が爪と交差して二人の同盟が結ばれた



 7


 雨は降っていないが曇天が続いている

ここのところ手すきなもので響子の日課は汚れてもいない『けもの』の洗車で始まっている

『雨が降ったら無駄になるって?ふうん放って置くと駄々こねるのはだあれ?』

ふと気づくと寄宿先の家長殿が響子の方へとやってきた

「いやぁ、どうもご不便をおかけしまして」
「何か進展でもございましたか?」
「ええ、ええ、先程毎日日用品を輸送してくれておりますヘリのほうから連絡文がありましてな」
「あら、何でしょう」
「はぁ、何でも、東京のほうからご連絡があったとかでご不便をおかけしております”響子様”を
 東京にお送りするように準備しているというお話でしたが」
「わたくしをですか?」
「はあ、お急ぎと思うのでそのまま東京まで、そういう話のようですが」
「あら、で、ヘリの手配はどなたがして下さったのかしら?」
「なんでも***様の秘書の方、そういう風にご伝言があった様子でした」

家長殿は響子の顧客の一人の名を言った。
今回ここにくる羽目になった原因の義理ある先とは別の顧客ではあるが
確かにいつまでも響子を放っている相手ではない
ここからの脱出の『つて』にしようかと思った先ではある。
ではあるが…

「あら、そうですの、それはお手数ですのねぇ」
「それではお帰りのご準備を、いえお車のほうも道路の復旧でき次第陸送するとのお話で」
「あら、残念ね」
「はあ?」
「いえね、わたくしここが気に入ってしまいましたのに」
「こんな辺鄙な在がでしょうかな?」
「まあ、わたくしの実家も変わりませんわ田舎ですのよ、
 ですから***様には申し訳無いんですけれどもうしばらくここに居りますわ」
「おお、それは、”響子”様がいらしてくださればこちらも気丈夫ではございますがなぁ」
「うふ、頼りない似非(えせ)巫女で申し訳ございませんわね」
「何のご謙遜を、村の宮司が申しておりました」
「あら、何か?」
「最近、響子様が社にお篭りしてくださるようになってからなにやら社に神気が満ちてきたと」
「何をおっしゃいますことやら」

『姉さんの手配でもなさそうだしね
 もっとも、これで先方のご都合にどれだけ変更が出るのかしらね
 とはいえ、このタイミングで帰ったら…
 どうせ、動いても動かなくても織り込み済みかもしれないけれど
 先方にご都合のいいキャストを振られるのだけはね…』

しかし、響子は立ち去りかける家長殿を呼び止めると

「あ、すみません」
「どうかなさいましたかな」
「ええ、私の車は陸送でって仰っておられましたわね」
「はあ、いつものヘリを何とか小学校の校庭に降ろすと言って居りましたがな」
「そうですの…」『ということはパイロットとあと一人、いきなり拘束ってことはないわよねぇ』
「どうなされましたかな”響子様”お気持ちが変わられましたか?」
「ええ、お手数ですがこの子をしばらくお願いできますかしら?」
「おお、もちろんですとも”響子様”のお車に手を触れようなどという恐れ知らず…
 あ、いや、いやそんな不届き者はこちらには居りませんでな」

やがてヘリが校庭に降り立ったとき手回りの品だけをケースに納めた響子は
まずヘリの機体にそっと手を触れた

『こんにちは、あなたとっても綺麗な子なのね、私を運んでくださるの?』

一瞬ヘリが胴震いをしたようだった

『急にお話してごめんなさいね、で、調子はいかが?変なところはないの?
 そう、大丈夫なのね?多分行き先が変わるって思うんだけど、嫌がったりしない?
 そう、じゃお願いね』

軽く機体をなでてやると響子はヘリに乗り込んだ

「お手数ですわね」

声に答えて機長と副操縦士が響子を振り返る

「今日も本当に”いいお天気”、ね、そう思われませんこと」

とたんに二人の首が人形のようにかくかくと上下に動いた

「それではお願いしますわね」

響子を乗せたヘリは曇天の空に舞い上がった。


『レイダー(収奪者)』はアリーナに足を踏み入れた
 
『レイダー』は、あせらない『レイダー』のするべき事は奪うこと。
収穫すべき物が実を付け、たわわに実るまで、それが収穫者に刈り取られてしまうまでに
がっちりと、そしてすばやく奪えばよいのだから。

『レイダー』の目は鋭い、何を奪うべきなのか、それを的確に見つけなければならないのだから。

『レイダー』は糸を巡らせる、自分の求めるものを確実に手に入れなければならないのだから。

そして『レイダー』は貪欲だ、求めるものを収穫者にも残しなどしない。

あせらず、的確にだが狡猾で貪欲に。

『レイダー』は孤独に生きている
だが、『レイダー』の求める物は全て『レイダー』の手元に集まり、そして消費され
消えていった。
安住の場所、そんなものも無い、いや必要が無い
収奪の場所、そこに行けばよいのだ、そして、収奪し、消費して立ち去ればよいのだ。

そして、今、『レイダー』は収奪の場所、張った罠の場所、狙った獲物が自らの手に落ちる
その場所で、獲物が自らの罠に落ちる瞬間を見届けに来ていた。

気まぐれに収奪を行うことも多い、
だが、それは所詮、生を満たすそれだけのことでしかない。
しかし、手をかけて求める物が罠に落ちるその様が
自らの手に転がり込むその様が、『レイダー』を何より愉しませる

そして今回の獲物は、できるだけ長く手元で愛でたい
自らの愛玩物として、道具として手元に置いておきたいとそう思っていた

そのためにかけた手間も大きかったが、その手間すらが『レイダー』の悦びになる
そんなにも大きな獲物がこの手に落ちる瞬間は見届けずにいられない、
そして最後には獲物を抱きとめてやらなければならないのだ
この白い『抱擁』で…

獲物の名前は「フィーメル スパイダー」
そして美しい獲物は可憐な偽装も身に纏っている
偽装の名前は「宮野 絵理花」

偽装など無用
手元にあるときには本来の美しい獣、それだけであれば良い
そして、自分が望むようにその力を振るえばよいのだ

その美しさは唯自分一人が愛でればよい、自分一人だけが。

シートに腰をおろし
アリーナを見渡す
偽装が、フィーメルの美しさを曇らせるとしか思われない偽装が必死であがく場所
偽装の行う努力を、それなりに光るものを
『レイダー』ほどの鑑賞者が認めないわけは無い

だが自分には不用のものだった
自分が必要な部分だけを持っていればそれで良い
そしてフィーメルがまとう偽装、それがフィーメルの弱点、
いや、偽装をまとおうとすることが弱点なのだと
そうと気付いたその時に、いや、初めてフィーメルの姿に焦がれたその時に
この収奪はもう決まっていたのだが…

今日をさかいに、偽装は消え去る、偽装はその意味を無くす、
偽装を無くした美しい獣が休める場所は自分の手元
自分の力に縋るしか身の置き所は無くなる
自分の白い抱擁だけが獣を救ってやれるのだ

そして自分のために美しい獣の力を振るうようになる
今日がその日
ここがその場所
偽装が死ぬ場所
自分ひとりの為の「フィーメルスパイダー」になる
ここがその場所なのだ

アリーナには猥雑と思えるような低い喧騒が満ちている
この種の競技をそれほど多く見ているわけではない
しかし、今日のこの会場が静かだが何か奇妙な喧騒に
耳の奥に不快に残る潮騒のような隠れた旋律に包まれていることは
「レイダー」にもわかる
そしてもちろんその旋律をそこに置いたのは自分の仕業であったから
「レイダー」は内心の満足を表情の奥に隠してじっと会場を見守っていた

今日の舞台のセッティング
計算外はひとつだけ
ここに持ってくるはずの女、それがどうやらヘリごと墜落した
それだけだった
今朝方の連絡では東京までの間に女とパイロットとがトラブルを、との通信のあと
レーダーからも機影が消えたということだった
仕上げにと思っていたが結局使えなかったか
だが、「フィーメル」の庇護をしていたらしいその女を消去する役が
「フィーメル」自身であろうとなかろうと、
「フィーメル」自身が勝手に悪夢を見てくれたことで
すでに目的は達していた

一応、先夜「フィーメル」を追い詰めて
自分の前まで誘導しようか、その手筈も整えてあったが
どうやったのか「フィーメル」は「レイダー」の敷いた包囲から抜け出てしまった
それもまた折込済み、
その夜のうちにフィーメルが手に入るならそれもよし
入らなくとも追い詰めることで目的は達成できている
そして、その夜遅く、いやほとんど翌朝といってよいが
「フィーメル」が自分の巣に戻ったことは確認していたし
この会場に既に偽装を身にまとって来ていることも確認していた
そして巣に帰ったその時も
会場に現れたその時も
『侵入口』は閉ざされていなかった

衆人環視の中での変身、そして準備した捕り手との乱闘
そして捕獲、それから自分が庇護してやることになる
世間には捕獲されたけだものが射殺されたとでも
発表されることだろう
偽装が変身を遂げたというのでは大事に過ぎる
偽装は突然乱入したけだものにでも食われた
そんな風に公表されるようにしておけばいい

獣自身は偽装の剥離を絶望するだろうが
公表された結果など知ることもあるまい
そして
世間というものは自分が信じたいことを信じる
そのようにできているのだから
それから捕獲した獣をゆっくりと……

そして既に旋律の演奏は始まっている
偽装がここに着いた時
彼女は先日の追跡を思わせる撮影音と閃光に包まれていた筈だ
彼女の姿だけを延々と、執拗に、そして無言で

その次は開会の遅延
それも偽装が今日身に着ける筈の競技用の衣裳が傷付けられると言う騒ぎ
それによる犯人の捜索
さらに他の団体からその遅延に対する抗議
勿論抗議の向かう先は偽装個人に向けられる

ようやく選手の競技が始まって選手溜りに偽装の姿が現れたが
偽装の表情が硬く神経質になっていることを
観察者でもある「レイダー」の目はそれを見逃してはいなかった
深い満足とともに

だが、偽装は健気に演技を展開している
それが偽装の持って生まれた性格なのか
それとも「フィーメル」の力によるものなのか
偽装の存在を無用と思う「レイダー」にさえ、偽装の演技が群を抜いていることがわかる
そしていよいよ最後の種目
リボンの演技だ
最後の演技、そう偽装の最後の演技
獣が人として振舞う最後の演技でもある

回転する肢体、そして高々と右腕が高く、後ろ手に高く掲げられる
ふっと停止して俯くその顔、前傾し反り返るするその背
折りたたまれ胸に添えられた左腕
停止の一瞬前に投げ上げられたリボン
どういう回転を掛けてあったのだろうか
リボンのスティックが掲げられた右腕につかまれると
リボンは緩やかな弧を描いて偽装の身体の周りに折り重なった。

巻き起こる拍手
緊張から解放された偽装が安堵の笑顔を見せる
駆け寄るコーチがタオルを被せてやる
だが、その笑顔が報われることは無かった

評点が公表された時、
そこに並んだ数字は、最高点を示していたが
直後に訂正がされ、偽装の失格が告げられた

失格の理由はなんでも無い事
傷つけられた競技衣裳の替わりに急遽身に付けた物が
大会で使用を認められていない
そういう理由でのことだった

コーチがクラブ関係者が抗議に走るが
認められる事は無い、られるはずはない
そうなっているのだから
そして会場のそこここからは評価に対する抗議ではなく
偽装が行った違反行為に対する非難の声が声高に発せられる

これで充分のはず、トリガーは引かれた
すでにタオルを深く被った偽装の手が震えている

だがもう1手…

入り込めないはずの選手席に
無遠慮な数名の観客が入り込み
偽装の姿を携帯で、無言で執拗に撮影しようとする
勿論静止するものもいない
そして、そしてひとりが無法にも偽装が硬く握り締めた手からタオルを剥ぎ取った時
そこには偽装の姿ではなく
「フィーメル スパイダー」の姿が現れた

更に炊かれる閃光
飛び交う怒号と悲鳴
さあ、ここに捕り手の集団が
現れる筈と思ったその時に
偽装が所属するクラブの席から
一人のジャージ姿の女性が立ち上がり

「お待ちなさい、異形の獣」

凛と木魂すその声が
決して大きくは無いが不思議に通るその声が会場を森と静まり返らせた。






 ジャージ姿の小柄な女性がすたすたと競技ゾーンの中央に現れる
白いジャージ、長いであろうその髪には前髪を抑える白いヘアバンド
そして髪の後ろを束ねた幅広のりボン

その出現に応えるように選手溜りからフィーメルが踊り出る
巻き添えに先程レイダーが手配した数名の撮影者が吹っ飛ばされる
傷は負わなかった模様だが、皆、吹き飛ばされた先で悶絶をしている

「神聖な競技を乱す異形の獣、成敗されるその前に、名前を聞いてあげましょう」

朗々と響くその口上
ひどく時代がかった物言いが混乱を起こしかけたアリーナに不可思議な沈静と
そしてこれから起こる事への奇妙な期待感を高まらせていく

「場違いなのはそちらの方だ、わたしの名などどうでもいい
 貴様か!私を引きずり回すおせっかい焼きは!」

異様な姿のフィーメルが人語を発したことで、アリーナにどよどよと囁き返される声、声、声
マイクも通さぬその声が皆に聞こえるのは何故なのか
だが先程から湧き上がる奇妙な緊張と期待感が観客全てを包んでいく

「下賎の物にはしつけがいるわね、この日この場で成敗されるのが異形の定めと知りなさい」

小柄な女性は右腕でさっとジャージの左肩を掴む
そして舞い上がる白ジャージの上下
思わず観客からおぉっと声が洩れかけるが
ジャージの下から現れたのはやたらとフリルとレースそして切り返しのついたワンピース
今度は別の意味でどよどよと囁きがもれる

「似合ってないぞ、年に似合ったジャージ姿がせっかい焼きにはふさわしい」
「お黙りなさい、わたくし”紘子”の腕の冴え、目に焼き付けてから逝くがいい」
とその声がきっかけでもあったかのように

『Round One』

意味不明の音声が全ての観客の耳に届いた


先手はフィーメルが取った、すばやく紘子に接近すると
ショートレンジで右腕の一撃を叩き込む
ヒットはしたらしいがすばやく身体を捻った紘子の動きが力の大半を受け流したかのようだ
替わりに詰まった距離から放たれた紘子の膝がフィーメルを突き上げ上方へと吹き飛ばす
だが、これもフィーメルが自ら跳んで蹴りの力を受け流したらしい

少し離れた距離を今度は紘子が小走りに走って詰める
走っている間にひどく大きなモーションで頭の後ろにまで振り上げられた平手が
フィーメルに向かって振り下ろされた

ぼごぅん

何か間抜けな音がして競技場の床に穴が開く
同時に舞い落ちるフィーメルの体毛
おおぅと観衆の声が洩れる
だが、飛び込むようにして身体を前転させたフィーメルに一撃はHITしていない

前転しながらフィーメルが紘子の背後に回りこむ
そして低い位置から伸び上がるように身体を伸ばすと
一閃
フィーメルの爪が紘子の背中を切り裂いた…
と見えた瞬間

「まぁ」

紘子が恥ずかしげな素振りと声音を発する
何が起こったのかフィーメルの身体は一撃を放ったその姿勢のままで前方にすり抜け
たたらを踏んだフィーメルの背中に今度は横殴りの紘子の一撃が
まるで空間を切り裂くように長い深紅の光跡を残して炸裂する

「かはぁっ」

その場で背中を見せたままよろめくフィーメル
つかつかと歩み寄った紘子が左手でフィーメルの頭髪を掴み
朦朧としているのか無抵抗のフィーメルを
ぐるりと自分の方に向かせると
パシーン、パシーンと小気味いい音を立ててフィーメルに平手打ちを浴びせる
そしてとどめとばかりに再び右腕を頭の後ろに振りかぶる
一瞬の溜め、紘子の右手に灼光が生じる
が、その溜めが紘子に隙をもたらした

フィーメルの額に輝く赤い眼がかっと見開かれ
頭上に振り下ろされる赤い一撃がフィーメルをとらえる一瞬前に力強い右肢の蹴りが
紘子を前方の壁まで吹き飛ばす
鈍音が木魂し壁面に丸く蜘蛛の巣状の亀裂が走る
そしてフィーメルも蹴りと同時にダッシュを開始して
壁際に迫り、後5メートルほどで壁に届こうというその瞬間
スピードを載せたまま一瞬で姿勢を低めスライディングを決めながら
壁際でよろける紘子に
右肢の踵、そこから生える凶悪な異形の爪を突き立てようと迫る

が、紘子の見せた混乱は、今度は紘子の見せた誘いの隙だったらしい
フィーメルの肢が紘子ごと壁に突き立つその直前

『フリルストーム!』

高らかに響く紘子の声
巻き起こる螺旋の旋風がフィーメルを捉え
フィーメルの身体を空中に投げ上げた
そして観衆の多くは旋風の中に漂う様々な色をしたフリルの飾りが
フィーメルの身体を凶暴に切り裂くのを見た
いや見たと思った

ジャンプする紘子
空中から錐揉みに落下するフィーメルの上方から
身体をくの字に折り曲げると
空中で前転する
そして揃えた足をさっと分かれさせて右踵、左踵と連続の踵落しを全体重ごと叩き込む
いや叩きこまれたはずだったが

『ナイト ミスト』

今度はフィーメルの低い声音が会場に流れ
フィーメルの体が昏い霧に溶け
今度は紘子がフィーメルのいた場所をすり抜けて地上へと落下する
そして落下した先には既にフィーメルが立っていた
爆転の要領で身体の天地を逆転させたフィーメルは
両手で床を支えると落下する紘子に両足の強靭なばねを叩きつけ
紘子を再び中空高くへと追い戻す

少し反り返るような姿勢で空中を舞う紘子
弧を描いて紘子が落下する先まで距離を詰めたフィーメルが
今度は少し姿勢を低くする
そしてすばやく両腕をそれぞれ逆の脇に構えると左右の爪が展張される

そしてフィーメルの両手には白光が宿る
仰のけに落下する紘子
低めた姿勢から空中へ飛翔するフィーメル
フィーメルと紘子の体が交錯したその瞬間
中空に巨大なクロスの光跡が描かれ
フリルが、レースが四散する

どよめく観衆
地上に降り立ち
くず折れる紘子の姿を振り返るフィーメル
切り裂かれた、フリルがレースが紘子の上に緩やかに落ちてくる

だが一瞬の静寂の中
落下するフリルとレースの中に
ひらひらと舞う五色の花弁が混じり、その量を増し
やがては花弁の雨となり
そして華霞にかすむその中から微光を纏った重ねの女性が
丈成す黒髪、優雅な扇を携えた王朝絵巻そのままの女性が
アリーナに姿を顕した

「異形の獣、小賢しくも拙き技で、我の化身を破ろうとて
 我には何の痛みもあらぬ、されど化身が身に着けたる我の愛するあの飾り
 そう、”フリル”と”レース”!
 そを切り裂きたる罪は万死にあたると知るがよい」
「世迷いごとを、そうか、貴様、貴様が私をこのような姿に変えたか」
「ほほ、言い掛りという物よ、異形の姿はそなたが背負う業と知れ
 いや、知ったところで神なるこの身の怒りに触れたがこの世との別れ
 ”斎王”の怒り、その身のかたに知るがよい」

『Final Round 』

再び、謎の音声が観衆全ての耳に届いた

神を名乗る斎王の異様な迫力に押されたか
フィーメルは今度は展張させた両手の爪を構えたままで斎王との距離を詰めない

「ほほ、いまさら我を恐れたとて、か細い命を伸ばせはせぬぞ」

右手に持った扇を左肩にあてたその姿勢のまま斎王が一瞬でフィーメルとの間合いを詰める
そしてフィーメルが反撃不可能な爪の届かないその場所から
扇を優雅に舞わせると今度は燐光を帯びた薄蒼い光跡がフィーメルを襲う
爆転して逃れるフィーメル

光跡はそのまま会場に立てられていた照明の一本に当たるとあっさりそれを切り倒し
観客の頭上を抜けてアリーナの壁に大きな裂痕を残した
だが逃れたフィーメルに斎王が一瞬で接近してのける
足を動かしているとも思えない、宙をそのまま水平に進んでいるとしか思えない
しかし、あまりに無防備に見えるその肉薄はフィーメルの逆襲を生んだ
展張されたままだった左の爪が斎王の身体を斜めに薙ぐ

ぃぃん

奇妙に金属的な音がしてフィーメルの一撃は斎王の扇で受け止められた

「時代遅れの化け物め」
「神なるこの身を妖怪呼ばわり、重ねる罪はいかように償う、既にそなたの身では足らぬぞ」
「思い出したぞ神を偽り、この身に貴様が与えた呪いの力」

ぎしぎしと鍔迫り合いの音がしそうだ
いや音よりも二人が放つ力のせめぎが空間をすら歪めていそうだ

何だ何が起こっている
こんなことは自分が書いたシナリオには一行たりとも書かれていない
混乱が、そして困惑がレイダーを打ちのめす
フィーメルと格闘するのは、いや混乱しきったフィーメルを
ケブラー製の投網やら
ゴム棒の射出機やら、最終的には象撃ち用の麻酔銃やらで取り押さえるのは
自分が苦心して手配した一団のはずだ

会場の一室に待機してもう審査結果の発表と同時に散開して
密かに出番を待っていなければいけないはずではないか
それに乱入してきたあれは何者だ
ふざけた姿と物言いで、自分のシナリオをぶち壊しにしたあの女…
レイダーは気付いていなかったがこのアリーナの観衆の中で
眼前の格闘に魅せられず、混乱と困惑の意識を発している者はいまやレイダー唯一人になっていた

「…ぐあっはは、いやそんな、だ、だは、も、もうそんな」
「あら、本当におかしな皆さん、わたくし道を聞いているだけですのに」
「で、でですから、あ、ああははっは、もう、ああはははは、お、お嬢さん、あはははは」
「そ、そ、そうですよ、あ、あはっははは、あ、あり、アリーナへはその通路の、ぐはっはは」
「あら、やっと教えてくださるの?通路の先をどうしますの?」
「つ、つうろ通路だって、ぎゃはあっは、で、で、ですから」
「お、お願いですからそんな、ぐはがははははは」

アリーナに近い一室では先刻から哄笑、爆笑
いやほとんど阿鼻叫喚としか思えない笑い声が響いている
互いに見ず知らずの男たちは何故かここに集合し
彼らが得意とする猛獣だのテロリストだのとの格闘の特技を振るう
そのはずだったのだが
出番の直前、緊張しきったその一瞬にふわりと部屋に入り込んだ女性から
アリーナへの道順を唐突に聞かれたのだった

あまりに何気ない聞き方をされたものだから
そして緊張した待機の瞬間についその先にあるアリーナへの道順などを聞かれたものだから
聞かれた男の脳裏にふっとおかしみが走った次の瞬間には、
男はこみあげる笑いの発作に捉えられていた

そして男の様子を不審に思った次の男がその女性と言葉を交わしたそのときには
もうその男も笑いの発作に捉えられ
そしてその後は、笑いが次々と男たちに伝染し
今ではもうほとんど男たちの脳裏には最初の目的など消えうせて
ひたすらにこみ上げる笑いとの格闘しかできる事は残されていなかった

『さてね、時間稼ぎくらいはできてるのかしら、まあ姉さんが何する気か知らないけどね』
涼しい顔で男たちに向かう女性は心中で呟いた

力のせめぎ合いは、だが終わりを告げようとしていた
きしり、きしりと奇妙な音が高まったかと思うと
二人の間の床が
ぴしりっと音を立ててひび割れた
転瞬左右に分かれる二人

だがまたも斎王が一瞬に間合いを詰め
構えた扇をフィーメルに叩きつける
それは左の爪で受け流された、しかし二撃目
素早く斎王が舞わせた一撃はフィーメルの肩口を切り裂きかけて
かろうじてフィーメルが身体に添わせた右手の爪で止められた
明らかに斎王の力とスピードがフィーメルのそれを凌駕している

「くく、足らぬ、足らぬぞ、かくもか細き力では、神なるこの身に毛筋の傷もつけることなど
 かなわぬものと知るがよい
 それとも秘めたる力でも後生大事に隠すとでも言うか
 ここで使えぬ力なら墓まで持ってゆくがよい
 ほほ、墓など残してやりはしまいが」

さらに一閃、また一閃と斎王が扇を舞わせる
一閃ごとに追い込まれていくフィーメル
だが、一閃ごとにフィーメルの身体、胴部を覆う漆黒の、そしてほのかに蒼さを見せる体毛が
徐々に蒼さをそして燐光を纏ってゆく

そして斎王がフィーメルの身体を唐竹割にと真上から扇を舞わせたその瞬間
扇は空を切り蒼い閃光とともにフィーメルの身体が斎王の眼前から消滅し
勢い余って扇が切り裂いた床を一瞬呆然と見つめた斎王の背に
フィーメルの一撃が
今は燐光を纏い冴え冴えとした蒼さがその身を包んだフィーメルの一撃が炸裂した

どよめく観衆
だが斎王も倒れない
瞬転してフィーメルに向き直ると
今度は最初から青白い燐光を纏わせた扇の連続攻撃を与えようと迫る

が、蒼く輝くフィーメルは先程までのフィーメルではなかった
スピード、パワーいずれも斎王と互角、いやスピードでは斎王を上回ったようだ
斎王の初撃を左の爪であしらうと体勢の崩れた斎王に右手の爪を斜め上から振り下ろす

「…!」

声にならない声があがったのかそれともそれは幻聴か
よろめく斎王
そしてフィーメルは振り切った右腕を再びくの字に身体に添わせ
俯き加減に右爪を
まるで何かに耐えようとするかのように
秘めた力を呼ぼうとするかのように
身体に添わせたそのままで一瞬の溜めを作った

ぽつん

右爪の先に赤光がともる
その爪だけ少し赤さを帯びていたその爪に
先端から根元に向かって赤光が走り、覆われ、長さを増し
そしてその爪はまるで紅の光の剣となっていまやフィーメルの左肩から
中空に向かって掲げられていた

「貴様が与えた呪いのしるし、神を偽るその力、今こそその身に返してくれる
 彼方に沈め!
『ブレスド ネイル』」

ふっとフィーメルの身体が沈む
そして低められた左肩から、フィーメルの身体が伸び上がると同時に
光の剣が
赤い尾を引く赤光が
斎王の身体を斜め下から両断し
さらに頭上で舞わせた一撃が
逆袈裟に斎王を切り裂いた
中空に残る紅いクロス
歪み、滲み、そして消え去る斎王の姿

数瞬、観衆は無言でフィーメルの勝利を見詰めた
が、観衆がどよめきを発しようとするその直前
止めた息をもう一度しようとするその直前に
殷々と斎王の声が響いた

「面白き事を見るものよ、一部とはいえ現世に下せし我が力
 力の纏いし薄衣(うすころも)
 我の力を使いしとはいえ、傷なと付けて見せようとは」

フィーメルが呆然とあたりを見回す

「き、消えてなかった、いや地獄に還ってなかったか」
「地獄?ふふ、そは、なれの赴く場所と知れ!
 いやいや神を冒したるその身では地獄も待ってはくれまいぞ」

再びアリーナの中央に斎王が姿を顕した

だが再び顕れた斎王の姿は姿かたちこそ先程と変わらないが
周囲に放つ神気が異なっていた
アリーナの中をいい難い圧力が満たす
観衆は現世に降臨した神の顕現に息ひとつ、身動き一つも出来ずにいる
フィーメルでさえその神気に縛り上げられたかのように動かない
いや動けないでいるのだろうか

「異形よ、異形の獣よ面白きものを見せたるその労はせめてねぎらってやらずばなるまい
 我が舞をせめて現世の名残とするがよい」

斎王は扇を広げ緩やかに扇を舞わせる
そして斎王の手から離れた扇が一枚、そしてまた一枚さらに一枚と
斎王の舞いにつれて次々と上方に螺旋を描きつつ
四方へ八方へと飛んでゆく

「我が身に注ぐその力、彼方よりわれに注ぎしその力、我に重なる力の源
 我が呼ばえに応えよや
『招月扇』」

ぱっしーん

乾いた音とともにアリーナの天井すべてが一瞬で吹き飛んだ

上空は蒼さが残る雲の多い空
そして空を背負った斎王の背後を雲が
台風に吹き飛ばされてゆくように飛んで行く
そして月が、巨大な月が
円盤じみた真昼の月が斎王の背後へと時計仕掛けのように動いてゆく

そして月が斎王に背負われた
何処かから再び出された扇を眼前にかざした斎王が

「『月光』!」

いうなり扇をぱしりと閉じる

観衆は見た
巨大な月から音も無く熱も無く僅かに雷をまとった光の柱が
一瞬で、しかし奇妙にゆっくりと
アリーナに突き刺さり
フィーメルを飲み込み、灼き滅ぼし、一瞬だけそこにわだかまると
今度は地上から天空に向かって打ち返されるように消えてゆくのを

アリーナの床には僅かに人らしいものの影だけが白く残って
先程迄フィーメルがいた場所を示しているが
そこを中心に直径10メートル程が黒々と灼き払われていた

「異形よ、悲しき異形よ、たとい我が身に逆らいしとは言え
 われはそなたを忘れはせぬ
 時が彼方に逝こうとも
 時の果て我が身も消えゆるその最果てまでも
 そなたはわれが抱きしめて彼方に誘ってやろうほどに」

再び斎王の頭上から五彩の花弁が舞い降りて
華霞をなし
かすかに煙るその中に斎王の姿が薄れ消えていった。

息を止めていた観衆がようやく始めたその息が吐息の波となり
喚声となり、やがて観衆は何を見ていたのかと辺りを見渡したが
そのときには既に
灼かれたはずの床、吹き飛んだはずのアリーナの天井、切られた壁も全てが元に復していた
それに気付いてどよどよと上がる喚声
しかし彼らの耳にアナウンスが届いた

「本日は Yoh-Zio-Rat社の新作格闘ゲーム【バンパイア ガールズ】イメージビデオ収録に
 ご協力頂き、終日の収録への御参加まことに有難うございました。
 なお、本日予定されておりました関東地区新体操競技連盟主催の大会は
 後日、日を改めましての開催と決定しております。」

不思議な事に観衆の全て、いやそれどころか本来そこで開催されていたはずの
競技会に参加した選手の全てはおろか競技委員まで
先程のアナウンスを納得して聞いていた

たった一人きり「レイダー」を除いては…。



 9


 異常なことが起こったことだけは、はっきりと理解できていた
レイダーほどの力があれば、逆に先ほどの出来事がどれくらい大変なことなのか
理解できるというものだ

自分でも数人、いや状況によっては数十人の人間にならば
同じような経験を与えることぐらいはできるだろう

しかし、たった今見たものは…

よほどの手間がかかっているのか?

とすれば、機材はどこに?
いやそんなものは残ってはいないし、勿論最初からそんなものは無かった

ならば誰かが、自分と同じような力を?
馬鹿な、どれほどの力を振るったというのだ
いや、もしそんなことが進んでいたならレイダー自身の感覚にも何かが触れてきたはずだ

もっと恐ろしいことに気付いてレイダーは自分の意識を2重の底に押し込めると
意識の表層に『白い』自分を流し、
そしてここに同行させた今日その場限りの『友人』たちの中に自分を滑り込ませた

案の定『友人』たちは今日ここでなにやら言う社名の『ゲーム製作会社』の
イメージビデオ撮影のエキストラに参加したと思っているではないか

新体操競技会はどうしたというのだ
それにフィーメルはどこに消えた?乱入したあの女もそう

そして何より『自分』だ!
『自分』だけが何故先ほどの出来事に疑問を持ち続けている?

もっと意識を拡大して回りの意識を探りたいという衝動は、すぐに消えた

危険すぎる

自分だけが疑問を持ったままだとすれば
自分はすでに発見されている可能性が高いということではないか

『友人』たちと話をあわせる自分はまったく無邪気に振舞っているが
2重にふたをした自意識の中ではこの場をいかに脱出するか
レイダーはもうそれしか考えていなかった

『友人』たちと話しながらアリーナを出ようとするレイダー
ふとレイダーの視線はアリーナの中央で
清掃作業を行っている作業服姿の女性の顔が
先ほど乱入した女に酷似していることを認めたが
屈辱と恐怖をしっかりと意識の下にしまいこみながらレイダーは
アリーナを後にした

『なーんだ、せっかく誘ってあげてるのに
 うーん掛かって来ればいいじゃない、
 そうしてくれれば約束なんかは置いといて、問答無用で叩き潰してやれるのに
 もう、面白くないんだから
 引きどころを心得てるなんて生意気ねぇ
 ま、仕方がないかな
 ふふん、蜘蛛姫様のお相手は充分務まりそうだけど
 私の相手には役不足かしら?』

三角巾を片手でゆっくり取りながらあどけない顔の彼女は苦笑を洩らす


『友人』たちはここを離れればじきに自分のことを忘れるだろう
もともとそのようになっている
レイダーは感覚のアンテナをすべて受動の側に向け
表面上では『友人』たちと同様の体験をした人間を装いながら駅に向かい
何度か路線を乗り換えるうちに
一人二人と『友人』たちと別れながらやがて雑踏の中に
たった一人消えていった

「ずいぶん楽しそうだったじゃない、お掃除は終了?」
「はは、どこからみてたの?」
「だれかさんが派手派手の趣味の悪い衣装を始末してもらうところから」
「なによ、モニターで見てたわけ?」
「最初からどうせヴィデオにとってるでしょ?」
「もちろんじゃなーい、後で見せてあげるね」
「ホント子供なんだから」
「あー、ひどいなぁシナリオライターは私じゃないわよ」
「どうせ、悪乗りして演技指導はやったでしょ?」
「むむ」
「知らないからね、力の無駄遣いして消えてなくなっても」
「ふふ、よくわかってるじゃないさ」
「わたし一人を置いてくつもり?」
「そうなればあなたの、のろいとかも消えてなくなるかもよ」
「姉さんと引き換えにしろって言うわけ?」
「だったらどうするの?」
「………」
「はいはい、降参。あんなくらいじゃ消えられないわよ最近は余計な力まで
 流れ込んできちゃってるしさ」
「余計なって、あははnetなんかに繋ぐからいけないのよ
 かわいいお嬢さんたちから崇め奉られちゃあ神様としちゃ消えられなくなるわよねぇ」
「ホント大失敗、力の拡散にって思ったのが逆効果
 当分はこのまんまかなぁ」
「とか何とか言ってるけど結構楽しんでるくせに」
「わかる?」
「付き合いがね、ふふ長いもの」
「ってことで当面の目標は……、怒ってる?」
「じゃ、わたし『けもの』を迎えに行かなきゃね」
「怒ってみないの?」
「泣かせてみたわけ?」
「………」
「………」

姉妹は微笑を交わすと黙って別れた

やがてレイダーはとあるターミナルに程近い再開発が中断されたまま放置されている
廃ビルの中に忍び込んだ
非常時の待避所を用意しておくのはレイダーのように生きるものの当然の心得
できればすぐにこの国を離れたい所だが
それには少し時間が掛かる
いくつか段取りも必要だろう

それまでの間身を潜めるにも準備が要るのだ
そのための資金ぐらいは常に用意しているが
あの相手の力から考えれば
銀行口座への接触すら危険かも知れなかった
それに…

ようやく接触してきた異物の気配、いやよく知る気配を察してレイダーは
表面に流していた無邪気な意識を消した
「今晩は、そうかどうして思い出さなかったかな?」
背後から声が聞こえた

レイダーもまた背中越しに応える

「おしゃべりする気になったのかしら?お姉さん?」
「気になった、誰だったかとね、さっきの場所では思い出せなかった」
「どうやって跡けて来たのか聞いていいかな?ずっと気配は感じなかったけど?」
「あの後すぐにここで待っていたと言ったら信じるか?」
「あれくらいするのが相手なら当然かな?でもここに決めたのは偶然のつもりだったんだけど?」
「どこに行っても同じだったといったら?」
「かないっこなかったって事なのかぁ、だったらここにくるまでに何時だって」
「わたしの流儀で片は付けるさ」
「自信があるのね」
「自信の問題じゃないと言ったら?」
「誇りとかっていうんですか?あは」
「ほかに生き方は知らない」
「わたしを食べに来たみたいに?」
「そうかも知れないな、樹、そう樹 沙耶(いつき さや)、やっと名前も思い出したが」
「意味がないのに、どうせそのときの名前だし、忘れてもらっていたんだけど?」
「かき回されて気持ちのいい物じゃないと気付いたさ」
「お姉さんが普段やってる事だものね」
「その通りと言っておこうか」
「だけど殺しに来たんでしょ?」
「理由は無いな、あっても大した事じゃ無い」
「嘘つきなんだ」
「かも知れない」
「一応ね、聞こうかって思うの、二度と手は出しませんって言っても」
「………」
「あは、無駄ってことね、自分のやってる事と違ってないって思っていても殺すんだ」
「………」フィーメルは無言で爪を展張した
「どうやって殺すのかな、いえ殺せるの?自分を殺すのとおんなじって思わない?」
「………」
「きれいに傷をカバーしてるね、ううんさっきからおしゃべりしてくれたけど
 心はしっかり閉ざしてる、ふふそんなにわたしが怖いかなぁ?」
「………」
「何がそんなに気にいらないの、引っ掻き回されたこと?
 ……違うよね」

レイダー、樹 沙耶はゆっくりと振り向いた

「始めてみた時とおんなじ、とっても綺麗、嘘じゃ無いんだよ、来てくれて嬉しかった」
「何故?」
「選ばれて、嬉しくないって思う?」
「なら何故?」
「今度は欲しくなったの、だけどわたしのやり方で」
「あまり聞いても意味が無いことに違いはないな」
「そうやって生きるのね、どんどん両手を真っ赤にするんだ」
「ほかの生き方を知らない」

フィーメルはゆっくりと身構える

「お姉さんは、そうフィーメルスパイダーなら、それでいいよね、だけど…」
「………」

飛び出せばいつでもこの娘を始末できるに違いない
フィーメルの身体に緩やかに、しかし圧倒的な力がこもる

「だけど…」
「絵理花はどうかと聞きたいか?」
「響子さんはどうかしら?」
「変らないな、大して意味が無い」
「そうよね変らないのよね、あなたがわたしを抱いたって
 わたしがあなたを抱いたって」
「何を言う気だ?」
「響子さんはあなたをどうして引き止めないのかな?」
「………」
「自分と一緒にいて欲しいって思わないのかな?」
「………」
「殺して欲しいそれだけしか考えていないんじゃないの?」
「………」
「死んじゃうよ、あなたといれば、いいえもう最初から生きていない人かもねぇ?」
「………!………」
「死なせたいの?」
「お前に何が…!」

フィーメルがそう言いかける、微笑を口に含んだ沙耶の口調も変わる

「赤いあなたで救えるの?
 赤いあなたが救えるの?」
「違う、救うとか」
「あなたにそんな資格があるの?赤いあなたに資格はあるの?」

フィーメルを怒りが満たす、唸りがかすかに口から洩れる

「あらあら怖いわ絵理花さん」

飛び掛るフィーメル、だがその一撃は沙耶を襲った一撃は、沙耶を深々と貫いていながら
沙耶の口調は変らない

「御覧なさいな、あなたは真っ赤」

引き戻す腕には手ごたえがある上にその腕は赤く染まって…
引き抜いた腕を構えなおす事もせず真横に振りぬくフィーメル
しかしまた手ごたえが返るのに沙耶の体からは血の一滴も流れてでない

「けれどわたしは真白に白い、真っ赤に染まったその腕で
 赤いあなたのその腕で…」

一振り、右腕を
二振り、左腕を、手ごたえと返り血だけが無意味に返される
フィーメルは両腕を広げると沙耶を羽交い絞めにする形で
捉えようと迫る

「白い私を抱こうというの?
 白い私を抱けるというの?」

目の前にいるはずの沙耶の姿が滲む
フィーメルの視界がゆがむそして視界がおぼろに霞み、ミルク色の霧がフィーメルの周囲を覆う

「白くして欲しくないの?」
「違う…、違う、違う」

「簡単なのよ?」
「戻れるわけなんか」

「本当に簡単なのよ?」
「戻れないよ、戻れるわけ無いよ」

「戻れないって思っているだけ、絵理花さんも白くなれるのよ」
「助けて、助けて、助けてよ」

「忘れればいいの」
「忘れる?」

「忘れてしまえばいいの」
「忘れられるの?」

「フィーメルが絵理花さんを忘れれば絵理花さんは白いまま」
「そんな事、そんなこと、そ、そんな、そんな、そん…な」

「抱いてあげる、わたしが抱いてあげる、わたしが忘れさせてあげるね」
「できない、できない、できないよ」

「できるわよ、抱っこすればいいのよ、わたしを抱けばそれでいいいの」
「………」

「そうすれば白くなれるわよ」
「白く」

「わたしがいつでも白くしてあげる」
「白く」

「何をしても白くしてあげる」
「白く」

「抱いて」

無言のままフィーメルは近づくそして沙耶に両腕を回す

「すきよ、抱いて」

緩やかにフィーメルの抱擁が閉じられそして
沙耶も抱擁を交わす
そして
勝利した沙耶の口から…
微笑む沙耶の口から…
一筋の赤い糸がこぼれ落ち…

「何故?」
「すまない、こんな愛し方しかできないみたいだな」

沙耶の背から
正確に沙耶の心臓を切り裂いたフィーメルの爪が
するりと抜き取られ
沙耶の体から力が抜けて
背を返したフィーメルの背後で
沙耶が白い床と抱擁を交わした



 10


 糸のような新月が掛かる夜だった

沙耶が月を眺めるその窓を、いや沙耶をフィーメルは何故か見過ごせないものと認めた

そして沙耶を

不思議な目をした娘だった、記憶を消すのが惜しいほど精気の美味しい娘だったし

いつものようなハント
精気を奪う、ただそれだけの行為
そうはしたくなかった
『すこし分けてはくれないか?』
『綺麗ねお姉さん、血を吸うのかな? 沙耶の血を吸っちゃう?』
『精気がほしい、沙耶って言うのか? 沙耶の命をすこし分けて欲しいのさ』
『吸われたらどうなるの? わたしもほかの人のが欲しくなったりするのかな?』
『無いな、それは無い、だけど…』

勿論自分はいつも行きずりのバンパイアだったとしても
夜の相手にはそれなりの礼は尽くしてきたつもりだし
それで済ませなかったのはフィーメルのどこかが沙耶に惹かれたからだったろうか
いまならば、同類の匂いをかいだという事だったろうか?

だが、数夜の後に再び沙耶を訪ねた時
沙耶の姿も、家族すらそこには無くいつかフィーメルはそのことも忘れていたのだが

『どうでもいいな、また、わたしの手が汚れた、それだけのこと』

立ち去ろうとするフィーメルの脳裏に
果たして帰りの便があるのかとの思いがかすめ、ふと可笑しさがこみ上げる
緊張が外れた反動で笑い出してしまいそうだ
自分の罪の深さに笑い出してしまいそうだ

けれど、次の瞬間
いや、生と死を分かつ髪一筋のはざま
粟立つ危険の予知の中で
フィーメルは自分が真二つに分かたれるその像が脳裏に結ばれるその刹那の前に
もう傷を負うのを覚悟しながら
せめて致命の傷を避けるためフィーメルは身体を前に投げ出した

背中を走る予知の戦慄を後追いしながら
永遠とも思える一瞬の後にフィーメルの背中が裂かれていく
皮膚が裂かれ血が流れ出る

声をあげなかったのは
予知のせい?覚悟のせい?それとも沙耶に犯した罪のせい?
それはフィーメルにも判らない

「あは、死ななかったね、せっかく愛してくれたんだから楽に殺したあげたのに」

沙耶がゆらりと立ち上がりフィーメルに向かって立った

「不思議?不思議かな?しっかり心臓を裂いてくれたのにね?」

何かがフィーメルの身体をかすめようとする
かろうじて身体をひねりそれはかわせた
床を背にして沙耶を見上げる

「ふふ、ちからの形は一つじゃないよ」

もう、身体は自己治癒を開始して、血はすぐに止まっている
だが、大きく動けば傷が破れるだろうし

「こう!」フィーメルの右側の壁に大きく裂傷が生まれる

沙耶の傷も自分と同様に治癒したのだろうか?
いや致命の傷はそうはいくまい
人間ほどの、高等な生き物ならば心臓を二つに裂かれて、なお自己治癒などは不可能だろう
自分もきっとそうであるように

「これもちからの形ならわたしの傷を直すのもそう」

ということか、治癒などではなくエンジンを修理して再起動した、そういうことか
せいぜい注意するとしよう、この後生きていればの話だが

「もう少しでお姉さんをわたしのものにできた、いえ、なってたの?
 それも、ちからの形なの」

それは注意を…いや、もうどうでもよいことだが

「どっちだったの?
 わたしのものになってくれたの?
 それとも振りしただけかしら?」

フィーメルは応えない

「ほら!」今度は右側の壁に裂傷が走る

「黙ってるのね
 それとも本気で愛する人はああするのがお姉さんの愛し方?」

フィーメルは応えない

「あは、可哀想なんだ
 ふふ、そうか、自分がそんな生き物って自分で知ってるの?
 だから、素直に愛してくれたの?
 愛すれば、わたしを殺すから?
 本当に可哀想、可哀想なお姉さん
 いいわ、だったら、殺してあげるね?もうお姉さんはいらないから」

沙耶の目の前からフィーメルに向かって裂傷が床を走る
避けきれないはずの見えない一撃は
死神の大鎌の見えない一薙ぎはフィーメルを何故か通り過ぎていき
フィーメルが背にした床だけを切り裂いて部屋の端まで進んで止まった

「ふふ、驚いた?たまにいるの、お姉さんみたいな人が
 直接ちからでは裂けない人がね
 だからさっきは空気のほうでね、あは、判るよね?」

この状態ではいずれにしても動けない、フィーメルの感覚で一撃の軌道は読めても
次までの間隔が読みきれていない

「でも大丈夫なの空気のほうでも充分裂いて上げられるんだよ、安心してね」

それは先ほど、この身で知った、傷はとりあえずふさがった
このままでは切り裂かれる事に何の変りも無いけれど

「立ってもいいよ、ううん立たないのかな?」

それだけの自信があるというわけか、いずれにしてもこのままでというのは自分の流儀ではない

「あは、そうそうそれでいいの、じゃいくよ死んでねお姉さん」

鎌鼬の一撃は見えないものの回避は可能、だが一度に一本でないと断言できるだろうか?

『自分なら手の内を見せきったりしない』

沙耶との間の距離は約3m
先程からの攻撃の間隔で来るなら一撃をかわせればこちらの一撃が先に届く
だが…

右側から一撃
最小限の動きでそれはかわした
すぐにもう一撃、左から
これをかわすことはできる、できるが危険を感覚が教えている
これをかわせば避けられない一撃が右から既に飛んでいる

『折角逆襲するんなら、こっちが無傷でないと…』か、はは紘子さん、申し訳が立たないね

フィーメルは大きく後ろに跳んで左の一撃をかわした
素早く両腕の爪を展張し軽く身体を右にひねると
身体の前で両腕を交叉させる
そして半身のままで次の一瞬前方へ跳躍を
その跳躍で沙耶との距離が2mまで詰まった瞬間
ひねった身体の右側から大きな衝撃が身体を突き抜けフィーメルの左腕は
ぼとりと音をたて
そして右の腕までも、皮1枚でぶら下がるもはや使えぬ重りになってだらりとたれる

「駄目よ、お姉さん楽にしてあげるんだからそのままで死んでね」

血が流れる、目が霞む、だが…あれは…あれはまだ生きている、死角になった右側で…


左半身になったまま
前に進もうとするフィーメル
次の一撃は左下から上方へ
避けてもこの距離では次で真二つ

身体をひねるフィーメル
左下から衝撃が抜けていく
致命ではないが左足は使い物には…
だが身体のひねりで振り上げた皮1枚の右腕はフィーメルの目の前に
がぶりと腕を咥えるフィーメル
そして右腕を首のひねりで肩から引きちぎり
返すひねりで沙耶に向かって…

右腕の、投げつけられた右腕の爪
その先には誓いの赤が
赤光を放つ光の剣が
祝福の剣が

真正面からそれを撃墜しようと放たれる「ちから」
だが…

『この剣が、折れず』
「曲がらず」
『そして剣に交わされた誓約が』
「過たず」
『果たされるように』
「果たされるように」

赤光は「ちから」を切り裂き、無効にし、そして…

沙耶の額に突き立つと
腕の重みでゆっくりと

悲鳴もあげない沙耶の身体をゆっくりと

上から…下へと…

そしてぼとりと再び音がして右腕が落下して

沙耶であったものがぐずりと後を追いかけてわだかまった

「はは、響子すまない、ううん、ごめんね、響子、誓いの誇りは…守ったよ…
 でも、誓いは…果たしてあげられそうにないよ…
 楽にしてあげるには…
 さすがにもう…動け…」
 
最後にフィーメルが

朱に染まったフィーメルが

両手を無くし、片足も、ほとんどちぎれたフィーメルが

白い床にくず折れて、部屋で最後の音を立てた




11


 ここは何処だろう?
足元がふわふわと頼りない気もするが、それでいて地面はしっかりと自分を支えているし
穏やかな春霞が何処までも広がっているような気がする
ただ、人がいない
だれか知り人を捜したいと思い、あてどなくまっすぐ自分の前にある道を
とぼとぼと歩いていると
絵理花の肩に置かれた手があった

「こんな処にいていいの?」
「あれ、紘子さん」
「くくく、本当に、仕方ないのねぇ、威勢がよかった割に
 わたしまでその気にさせて引っ張り出して、その挙句?
 ここに来てちゃ駄目でしょうが?」
「え?ここ?
 そうだ、ここってどこですか?」
「やれやれ、覚悟をしてきたんじゃないの?」
「あ!そうでした、あは、そっかぁ、ここって、そうだったのかぁ」
「やれやれ」
「でもでもなんとか片は付けまし…」
「このお馬鹿!」
「い、いえ、あの」
「恥をかかせてくれたわね?」
「はい?」
「響子になんて言えばいい?」
「……あーっ!」
「お願いされたわたしの立場は?」
「う、うう」
「仮にも神様なのよ、なんていい訳しましょうか?
 しくじりましたって?お願いされたけど絵理花さんは見事にお星様にって?」
「あ、あの、そのう」

紘子は何処かから斎王が携える優雅な扇を取り出すと
「ここはお馬鹿が来るには早いわよ、行ってこ〜い」
閉じたまま絵理花をはたいた

「きゃぁ!」

絵理花は叫んで飛び起きた
「あ、あれ、ここは…」

ここは見慣れた響子の部屋、その寝台、自分は何故かパジャマ姿
「ちょ、ちょっとまって、私は確か…」
「おはよう絵理花さん、お目覚めはいかが?」
紘子が横から声をかける、何故だか紘子は裁縫道具を手にしていたらしい

「ひ、紘子さん、わ、わたし、手と足が…」
「ええ、そうよほんとにお馬鹿さんねぇ」

言われて思わず両手を見る絵理花
腕を上げたその瞬間、かすかに疼痛が、幻のように何処かを走り抜けた気がしたが
腕の動きにも、そして背にも、足にも全く違和感が無い
裁縫道具をしまいこむ紘子に絵理花は思わずあることを考えて

「紘子さん、いったいあの、あの、ひょっとして、まさか?」
「そうよ、お裁縫してあげたけど?」
「う、う、うぅ、やっぱりぃ」
「大変だったのよぉ、でもほらいい仕事でしょ?普通に動く分には今でも大丈夫
 二日ほどしたらアリーナ見たいに動けるわよ、それまでは無茶しないでね?
 ん?どうしたの?」
「あ、あの、さっきあっちから追い返しませんでしたか?」
「あっち?」
「こんな処に来てちゃ駄目よって、あの、その、あっちからです」
「ははぁ、あっちね、なるほどなぁ、はは」
「違うの?」
「残念ながら今回はまだあっちにはいなかったわよ
 わたしは繋ぎ合わせて、すこし血を戻してあげただけ
 あとはあなたの体が直すでしょ?」
「まだましかぁ、でも、でも…」
「まし?」
「だって、生き返るなんてずるいって思ったんです
 わたしだって沙耶を…
 だけど沙耶は誰も助けてくれないけれどわたしはお裁縫してくれる人がいる
 だけど紘子さんが、お裁縫してくれなくっちゃ、わたしやっぱり……」
「やっぱり?」
「やっぱり誰かに助けてもらわなきゃ何にもできないんですね」
「仕方ないでしょ、子供のうちはね?」
「それじゃ駄目です、響子との誓いだって果たせない」
「せっかちさんね」
「紘子さんには、紘子さんにはわからないよ
 こうやってあがいてる、あせってる生き物の事なんて!
 死なない人には生き物の気持ちなんかわからないんです」
「落ち着きなさいね、ほんとにもう、
 雨に濡れた人がいて傘をさしかけてあげられるなら貸してあげない?
 知り合いのその人の服がほころびていたら、助けてあげちゃ駄目かしら?
 ましてやわたしが好きな人
 わたしがたまたまお裁縫ができる人でも?」
「服とわたしは違います!」
「あらそうなの?でも変わらないわよ」
「え?」
「自分で言ったじゃないさ、死なないわたし、人じゃないわたし、生きてないわたし
 そんなわたしの目から見れば服もあなたも大して変わらないわよ」

言いながら紘子は絵理花を寝かしつけようとするが
絵理花は紘子の手を振り払った

酷いことを言っている、自分でもそれくらい判っていた
だのに紘子は自分のことを蔑んでまで絵理花の負担を減らそうとしてくれた
いつもなら、素直にお礼も言えたはず
けれどお礼を言う替わりに…

「判りました」
「あら聞き分けてくれるのね、さ、ゆっくり寝んで」
「違います!!」
「まぁ、じゃ、なんだって言うの?」
紘子が少し悲しげに絵理花を見かえす
「借りておきます」
「借り?」
「そうです、借りにします、どれだけ掛かっても、この借りは必ず返します!」
紘子が顔を伏せる
しまった言い過ぎた、謝ろう
さすがに気がとがめて言葉を紡ごうとした時、紘子の姿が朧に滲み
みしり
一瞬、家鳴りがしたかと思うと
いぃぃぃん
その場に神気が満ち満ちた
アリーナの時よりも、いやあんなものとは到底比べ物にならない
あれは所詮は演出
だがこれは……

『小さき者よ…』
紘子ではなかった、いや絵理花が見たことのある斎王ですら
今目の前にいる存在に比べれば
斎王が戯れに示した存在のひとかけらだったと今はわかる
『まこと、口は災いの元とかや』
上げられた顔からあどけない表情が消え失せ
替わりに美が
むしろ恐怖すら覚える美が
ほとんどそれだけで絵理花を麻痺させてしまいそうな
斎王の顔がそこにあった
「さ、斎王さ…」
『口をつぐむがよい、小さき者よ
 まこと口は災いの元
 「借りる」とはよくも、よくも申せしもの
 人の身をわずかに越えるその力で増長せしか?
 我に「借りる」とはまこと思い上がりたるその物言い
 死にゆくものの、か細きその身を仮にわれが幾万年永らえさせてやったとて
 そなたにそれが返せようか?
 返せぬ借りはいかにして返す?』

ずん
今度は家鳴りどころではない
地面の真下から何かが突き上がってきた

ぎちり
その上、今、きしみを上げたのは
空気、いや
あまりに大きなものが狭いこの場を占めたことに
世界があげた悲鳴とそう聞こえた

神がいる
間違いなくここにいる
そして絵理花はその神に
たった一人で向かい合っているのだった

『返せぬ借りは死にゆく定めの身には過ぎたるもの
 左様であろう?
 なれば借りなど無くしてやろうほどに
 心を軽くするがよい
 くく
 我が結わえしその体
 我が結びしその糸を
 くく
 そう、その糸を今からほどいてやろうほどに
 さすればその身は元のまま
 その場で綺麗にほどけるであろう
 くく
 それでよかろう?
 それで、貸しもなければ借りもない
 おお、そうじゃ、先程足してやった血などは借りるには及ばぬ
 どうせその場に流れるであろう
 申しておくが、仮にこの場に響子がいたとても
 我の心は変わらぬぞ
 神の面(おもて)を伺いしその身の因果
 ひとりで背負いたいのであろう?』

そう、そのとおり
詫びて収まるものではない
これで命が終わるならそれは自分のせい
先程は取り乱してしまったが
自分の背中に死を背負ったいま、今度こそ間違いたくはない
絵理花の心は冷たく冴えて
斎王の目をまっすぐに見返すと
一度こくりと頷いた

『くくく、死を目にするほうが素直になれるとは
 つくづくと生きにくい、悲しき育ちをしたるものかな
 よき覚悟
 嫌いでないぞ、そなたのようなる生き物は
 くく、よかろう
 一度なしたる我の行いを無駄にするのも甲斐無きこと
 機会を与えてやろうほどに
 おのれの力でおのれの身をあがなって見るがよい
 さすればそれはおのれのはたらき
 借りる、借りぬと悩むこともあるまい?
 絵理花
 そなた、今この場
 左様、今ここで、我を斎王を、神なる紘子を喜ばせて見せるがよい』
斎王はどこかから大ぶりの砂時計を持ち出して
絵理花の前に示した
『時間は一時間
 この砂の最後の一粒が落ちるまで
 さ、試してみるがよい』
言葉の終わった瞬間
圧力が消えた
いや圧力は消えたがそこにいる
途方もなく巨大なものが森々と静まり返ってそこにいる

示された砂時計は非情に砂粒を落としてゆく
だが不思議にあせりは生まれなかった
答えはあるはず
紘子は非情ではあるかもしれないが
不公平や嘘はつくまい
ああ言ったからにはきっとこの場で
今、自分ができることが必ずあるに違いない

ん?いま自分は目の前の神をなんと呼んだ?
斎王でなく紘子と…
斎王も言った、『斎王を、神なる紘子』を?
紘子、紘子さん…
不思議な人、いや神ではある
あんな力を備えていて
響子の姉と名乗っているが
姉と言う割には何故いつもわざとらしいほどに可愛らしく振舞う?
もっと大人の顔をしていればいいではないか
響子やせいぜい自分としか接しないならもっと…
響子はおろか自分にさえも甘えて見せるのは?

わたしなんかの愛人になりたいなんていったのは?
てっきり冗談と思っていたけれど…
それに…
『いいわよ、握ってもらうほうが好きだもの』
あの言葉、それにあのとき見せたあの顔は?

解った
もうこれ以上時間は要らない
間違っていたとしても
そう間違っていたとしても言ってあげたい
この人に、いやこの大好きな存在に

「お応えします」
斎王は絵理花の掛けた言葉に
『まだ5分と経ってはおらぬ、やり直しはならぬぞ
 機会は一度、わきまえておるのか?』
言葉を紡ぐ替わりに絵理花は頷いた
『よかろう、ならばみずからの命を
 あがなってみるがよい』
再び神気がその場に満ちる
不快でこそないが骨ごと震えが襲ってきそうだ
だが、いいたい、間違えずに言いたい
その想いが絵理花に口を開かせた

「ありがとう、”紘子”」
そう答えた瞬間目の前で神気が膨れ上がり
間違ったかな?そう思った絵理花の目は
文字通り自分に飛びついてくる紘子の姿を見つめていた
そう、どこかあどけないいつもの顔で

「きゃぁ、痛いって、糸、糸ほどけちゃうんじゃ」
「大丈夫、大丈夫、切れたらお裁縫してあげる
 絵理花さん、好き、好き
 だっこ、ねぇねぇだっこぉ」
ぎゅっと、ぎゅっと抱きしめた
「嬉しかったよぉ、解るでしょ”紘子”ってねそう呼んで抱っこしてもらいたかった
 いないものねぇ、響子は姉さんって呼ぶしさ
 そう、わたしを可愛がってくれる人なんて」
「紘子、可愛い」
絵理花は紘子を抱きしめた

「ふぅん、二人でそんなことしてたわけ?
 大急ぎで帰ってみればわたしのベッドで?」
背後からあまりにも聞きなれた、そしてここで聞くのが当然の声がして

「きょ、きょ、響子さ…」
「なによ姉さん、そんなことまでお願いしたつもりはないんだけど?」
「あら、そうだったの特別言わなかったじゃない?」
「ひ、紘子さんまでなに言い出すんです」
「お黙りなさい」
「黙っていてね」

思わず口をつぐむ絵理花の前で姉妹はつかつかと歩み寄り
そして
「くくくくっ」
「あはははっ」
「やったぁ、やったよぉ、響子」
「おめでとう、姉さん野望達成ね」
そして二人で手を取り合うと

「では、絵理花さん」
「ええ、絵理花さん」
「末永く、私達をよろしくねぇ」

綺麗に重なった二人の声を聞きながら
絵理花の渋面はしばらく消えそうになかった 





エピローグ 『抱擁』

裏山からは肌寒い風が
そろりそろりと吹いてきて
人無き里に間も無く来る冬の気配を感じさせる

寂れた里に住まう人は、ただひとり
紘宮社の神域で彼女はひとり落ち葉を掃き集める

掃いても掃いても落ち葉は積もる
終わりのない作業
それを無駄というものもあるかもしれない
けれど
彼女は充足しているようだった

やがて聞き覚えのある排気音が彼女にも聞こえてきた
今日は結界代わりの例の気配も大人しい
けれど迷い込むものなどほかにはあるまい

ドアが開いて閉じる音
閉じる間も惜しむように
石段を元気よく駆け上がってくる気配は、絵理花のそれに違いない

「紘子さーん」聞こえた声に
彼女は振り向こうとして少し戸惑い
自分の背中の方からも当惑と驚きの気配が膨れるのを察して
そして無言で振り向いた

「……こんにちは、お姉さん」
「さ・や……」
絵理花が戦闘態勢を取りかけて
沙耶はもう一度あの業火の剣が自分を貫くものと静かに心を定めたが
絵理花はふっと力を抜いて沙耶の背後に現れたものと視線を交わしたようだった

沙耶の両肩に紘子の手がそっと置かれる
実体があり、重量だってあるくせに、ほのかな体温さえ伝わってくるそのくせに
肉に縛られないその存在
『も少し生きてみる気はない?あなたが気にいっちゃったのよ
 ほかの誰のためでもない、私のためって思ってくれると嬉しいけど?』
そういって自分をもう一度この世に呼んだその存在
この里の何処にあっても、たとえ人の姿をとらずとも
人の力を上回る沙耶には紘子を感じることができる

やがて絵理花の背後には、ここに来てからもう何度か顔を合わせた
絵理花の想い人がやってきて
絵理花の肩には響子の両手がそっと置かれた

響子は紘子と視線を交わしているようだ
そして自分は絵理花と

けれど沙耶にはもう発する言葉がなかった
何をいまさら言えるだろう
謝るとでも?
いや、言うべきことは先日全て言ってしまっている気がした

けれど

思いは伝わるものなのだろうか
絵理花が近づいてきてしっかり自分の手をとった
そして
「わたし、確かに沙耶を殺したからね。殺すつもりで確かに殺したよ」
そうか、そう言ってくれるのか
ならば自分も返す言葉は確かにあった

「ええ、殺されました。それにわたしもお姉さんを殺すつもりだったし
 紘子さんがお節介しなきゃお姉さん死んでいたって思うけど?」
二人の呼吸はぴたりと合った
「うんうん、確かに殺される所だった
 沙耶が生き返って嬉しい、でもでも沙耶を殺したってことは
 わたしが背負っていくからね
 人殺しだってことは、人を殺すつもりで自分の力を振るえる生き物だって
 それから逃げるつもりはないからね」

そうか、やっと解った、あれほど自分が焦がれたわけが
自分は捨てたがフィーメルは
絵理花は捨てない、そういうことか

「お姉さんらしいね」
「うん、ほかに生き方は知らないの」
「なのにどうして泣いてるのかな?」
「ほんとだ、なぜかな?」
「うふ」
「あは」

もう一歩、今度は沙耶のほうから距離を詰めた

今度は自分のほうから言ってみる
「ここは素敵、だあれもいないもの、だけど紘子さんがいるの
 姿を見せなくっても紘子さんがいるのが解るの
 最初、見張られてるのかって思ったけどそうじゃない
 わたしのことなんか放って置いて、ただただ、そにいらっしゃる」
「なんとなくわかる」
「だからわたしここにいる、そう決めたの、いいかしら?」
「わたしがなんて関係ないよ、決めたんでしょ、それでいいじゃない」
「お姉さん」
あとはもう
何も
何もいうことなど残っていなかった

そして沙耶が
そして絵理花が
自分とよく似た自分の影を、たがいにしっかりと
ただしっかりと抱きしめた


「抱擁」Famale Spider V  END



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もう一つの…


エピローグ 『抱擁』

 響子が戻ってもうひと月
街には肌寒い風が吹き始め、人はすこし人恋しい気分になろうかというこの季節

響子の部屋を人の姿で訪ねることが少し増えたのも
きっと無縁では無いのだろう、二人で過ごすただそれだけの時間にも
ふと絵理花の中を何かが通り過ぎることがある

「ね?週末里帰りをするのよ、一泊だけど一緒にこない?」
「え、そうなの? 行きたい、行きたい。
 だって紘子さんってばあの日すぐに帰るからってそれっきり、ちゃんとお礼も言いたいし」
「お母様の了解は?」
「うぅ、それが問題、でも何とかする」
「あら、急に元気になっちゃったわね、姉さんに会うのがそんなに嬉しい?
 少し妬けちゃうかな、ふふ、じゃいらっしゃい、でも無理はしちゃ駄目よ?」
「うん、ありがとう響子さん」
「あら、どうしてお礼を言うのかしら?」
「気分転換にとかって思ってくれたんでしょ?」
「ふふ、気を回しすぎよ、もうすぐ向こうは雪が降り始めるの
 そうしたら『けもの』じゃ乗り付けられないもの」
「はいはい、そうしておいてください、でも必ず行くからね」

そうして週末、意外なほどあっさり下りた外泊の許可に絵理花は拍子抜けしてしまったが
それはともかく紘子の笑顔に会えるのかと思うと
絵理花の顔はほころんだ

「ねえ、今度も、お料理が出るのかな」
「あはは、心配?でもこの間、食べちゃったんでしょ?」
「うん、気がついたときはどうしようかって思った」
「ふふ、最初以外は大丈夫って思うけど?」
「よかった…え?思うけどって」

そんな話をしながら晩秋というよりもう初冬の風景が
二人と一台を出迎えて
今日は何故だか例の気配も大人しく
紘宮社は前回とは別の顔で絵理花を迎えてくれた

「紘子さーん」
石段を駆け上がった絵理花の目に後ろ向きで落ち葉を掃き集める女性の姿が飛び込んだ
だが駆け寄ろうとする絵理花に振り返ったのは

「さ・や……」
「……こんにちは、お姉さん」

反射的に身構えかけて、しかし絵理花は構えを解いた
そのまま無言で向き合う二人
そして沙耶の後ろから紘子が近づいてきて沙耶の両肩に手を置いたとき
絵理花は理解した
また、紘子が贈り物をくれたことを

絵理花は沙耶の手を取ると
「わたし、確かに沙耶を殺したからね。殺すつもりで確かに殺したよ」
「ええ、殺されました。それにわたしもお姉さんを殺すつもりだったし
 紘子さんがお節介しなきゃお姉さん死んでいたって思うけど?」
「うんうん、確かに殺される所だった
 沙耶が生き返って嬉しい、でもでも沙耶を殺したってことは
 わたしが背負っていくからね
 人殺しだってことは、人を殺すつもりで自分の力を振るえる生き物だって
 それから逃げるつもりはないからね」
「お姉さんらしいね」
「うん、ほかに生き方は知らないの」
「なのにどうして泣いてるのかな?」
「ほんと、なぜかな?」
「うふ」
「あは」
「ここは素敵、だあれもいないもの、だけど紘子さんがいるの
 姿を見せなくっても紘子さんがいるのが解るの
 最初、見張られてるのかって思ったけどそうじゃない
 わたしのことなんか放って置いて、ただただ、そにいらっしゃる」
「なんとなくわかる」
「だからわたしここにいる、そう決めたの、いいかしら?」
「わたしがなんて関係ないよ、決めたんでしょ、それでいいじゃない」
「お姉さん」

そして絵理花は自分とよく似た自分の影をしっかりと
ただしっかりと抱きしめた



「抱擁」Famale Spider V  END





           
「抱擁」あとがき

お読み頂いた方へ

 BBSのほうにでも書かせて頂けばよいのですが
長文でBBSを占拠してしまうのもどうかと思い、少しスペースを頂きました

せっかく載せて頂いていた『嘘』を中断して作業していたのがこれでした
せいぜい『窓』や『正餐』+アルファの長さかなと思っていたら
お友達とチャットなどで話すうち書きたいネタが次々と湧いてきて、
途方もなく長くなってしまい、一時は完成するのか自分でも不明でした。

そのたびに、励まし、また、刺激を下さったその友人 こちらの投稿者でもあるhitさんに
本作品を捧げたいと思います。
なかでも最後に絵理花さんと抱擁を交わすそのキャラさんは、ただの記号、敵キャラだったのに
hitさんとお話する中で性格が出来上がり
11話でお星様になるはずが抜けぬけと生き残って再登場の機会すら脳内ではありそうな
キャラになってしまいました
その意味で彼女はhitさんのキャラだといって良いと思います。

あと、もうお一人凄いヒントを頂いた方がいらっしゃるわけですが
それがどなたで、どんなシーンのヒントであるかはそれは作中でもおわかりかなと思います

また、この途方もなく長い作品にご理解と貴重なスペースを下さった夜空さんに
あらためて感謝をさせて頂きます。

本作にはいろいろな抱擁が出てきます
親愛のそれであったり、友愛の、恋情の、また相互理解の、
そしてまた時には死の抱擁であったりします
人恋しい折に、読者さんのかたわらにただ寄り添って体温が伝わる方が
お見えになることを祈って止みません
また、現在お見えでなくともその機会が早く訪れますように

Enne